横谷幸重 | 真田昌幸・信繁に仕えた忍者集団横谷衆の頭領。岩櫃城の防衛や関ヶ原の前哨戦(上田合戦)で諜報・狙撃活動を展開

よこや ゆきしげ

地域甲信越
所属勢力・属性真田家臣
大名家真田
家紋六文銭
主武器忍び刀・鉄砲
衣装・甲冑実戦具足
武将タイプ「横谷忍集」・射撃

真田昌幸・信繁に仕えた忍者集団「横谷衆」の頭領。岩櫃城の防衛や関ヶ原の前哨戦(上田合戦)で諜報・狙撃活動を展開。「横谷忍集」・射撃と評され、周囲からの信頼も厚かったと伝わる。

目次

横谷幸重とは

横谷幸重は、真田家に仕えた武士として伝えられる人物です。忍びの頭領として語られることが多いものの、その姿の多くは後の時代の伝承によるもので、くわしい事績ははっきりしません。

吾妻の地

横谷氏は、上野の吾妻郡(今の群馬県吾妻郡)に根を張った一族とされます。吾妻は、信濃と上野を結ぶ山道の通る土地でした。

岩櫃城

岩櫃城は、吾妻郡にあった山城です。真田家が上野に勢力を伸ばすうえでの拠点となり、真田昌幸も重んじた城でした。

真田昌幸

昌幸は、武田家の家臣から身を起こし、武田家の滅亡後は北条・徳川・上杉の間を巧みに渡り歩いて家を守った武将です。

吾妻の山の武士たち

吾妻の山あいの武士たちは、地形にくわしく、山道を使った見張りや連絡にたけていたとされます。真田家は、こうした地元の武士を巧みに使いました。

第一次上田合戦

天正13年(1585年)、真田昌幸は上田城に攻め寄せた徳川軍を破りました。少ない兵で大軍を退けた戦いとして知られます。

第二次上田合戦

慶長5年(1600年)、関ヶ原に向かう徳川秀忠の大軍を、昌幸と信繁は上田城で足止めしました。秀忠は関ヶ原の本戦に間に合いませんでした。

鉄砲と忍び

山の多い土地での戦いでは、鉄砲を使って遠くから敵をねらう戦い方も重んじられました。幸重が射撃を得意としたという話も伝わっています。

真田の忍びの伝説

真田家には、のちに「真田十勇士」のような物語が生まれ、忍びの活躍が語られるようになりました。幸重の話にも、そうした物語の影響があると考えられます。

真田家のその後

関ヶ原ののち、昌幸と信繁は九度山に流され、真田家は兄の信之が継ぎました。信之は、のちに信濃の松代藩主となりました。

真田家と吾妻

真田家は、上野の吾妻郡や沼田を手に入れ、信濃と上野にまたがる領地を持ちました。吾妻の武士たちは、その支配を支えました。

沼田城

沼田城は、上野の北部にある城で、北条家・徳川家・真田家の間で取り合いになりました。

評価

幸重は、伝承の色の濃い人物ですが、真田家の上野・吾妻の支配を支えた地元の武士の一人として語られています。

このイラストについて

このイラストは、夜の山あいで、鉄砲を構えて身を低くする幸重を描いています。

鉢巻と黒っぽい甲冑、狙いを定める鋭い目つきで、山の中で敵をうかがう忍びの頭領の姿を表しました。

遠くの城と山並みは、真田家の拠点だった岩櫃城のある吾妻の山々をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

真田家

信濃の小県郡を本拠とした国衆。真田幸綱(幸隆)が武田信玄に仕えて信濃攻略で活躍し、子の昌幸は武田家滅亡後、織田・北条・徳川・上杉の間を渡り歩いて家を守った。

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主家

真田幸村

家臣団

真田信綱真田幸隆真田昌輝
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