魚住景固 | 朝倉氏の年寄衆、富田長繁に謀殺される

うおずみ かげかた

地域北陸
所属勢力・属性朝倉家臣
大名家朝倉
家紋―
主武器太刀
衣装・甲冑実戦具足
武将タイプ悲壮・国人

越前朝倉氏の重臣。朝倉義景のもとで奉行人・年寄衆を務め、天正元年(1573)の朝倉氏滅亡の際に織田信長へ降って所領を安堵された。翌天正2年、越前の一揆のさなかに富田長繁に謀殺され、魚住氏は滅んだ。

目次

朝倉氏の奉行人として

魚住景固(うおずみ かげかた)は享禄元年(1528)生まれとされる。魚住氏は播磨赤松氏の庶流と伝わり、景固の曾祖父の代から越前の朝倉氏に仕えたという。

景固は朝倉義景のもとで奉行人を務め、本拠一乗谷の政務に関わった。永禄11年(1568)、足利義昭が一乗谷の朝倉館を訪れた際の記録『朝倉義景亭御成記』には、年寄衆の一人として名が見える。年寄衆とは、当主を補佐する重臣層を指す。

織田信長への降伏

天正元年(1573)、織田信長の越前侵攻によって朝倉氏は滅亡した。景固はこの過程で信長に降り、嫡男の彦三郎を人質に出したとされる。織田軍の越前での道案内を務め、所領を安堵されたという。

信長は越前の支配を旧朝倉家臣の桂田長俊(前波吉継)に任せた。しかし旧臣どうしの対立は深く、越前は不安定なままだった。

富田長繁による謀殺

天正2年(1574)正月、府中城主の富田長繁が土一揆(農民・地侍の武装蜂起)を率いて桂田長俊を討った。長繁は続いて景固を狙った。景固は次男の彦四郎とともに龍門寺城(現・福井県越前市)での朝食に招かれ、その場で殺されたと伝わる。翌日には嫡男の彦三郎も討たれ、魚住氏は滅んだ。

景固は穏やかな人柄で領民に慕われていたとされ、長繁は理由なく景固を滅ぼしたことで一揆勢の支持を失ったという。同年2月、長繁は七里頼周を大将とする一向一揆勢に討たれた。越前はこの後、一向一揆が支配する国となる。

ゆかりの地

  • 一乗谷朝倉氏遺跡(福井市):景固が奉行人として仕えた朝倉氏の本拠
  • 龍門寺城跡(越前市):景固が富田長繁に招かれ謀殺されたと伝わる城

参考にした資料

朝倉家の重臣

景固は、越前の朝倉家に仕えた重臣です。

朝倉家

朝倉家は、越前の一乗谷を本拠とした大名で、朝倉義景の時代には京都の文化を取り入れて栄えました。

信長との対立

朝倉家は、浅井家と結んで織田信長と対立しました。

朝倉家の滅亡

1573年、信長は越前に攻め込み、朝倉義景は自害して朝倉家は滅びました。

信長に従う

朝倉家の滅亡の前後、景固は信長に従いました。

越前の支配

信長は、朝倉家の旧臣たちを使って越前を治めようとしました。景固も、越前の一部を任されました。

鳥羽城

景固は、越前の鳥羽城を拠点としたとされます。

朝倉旧臣どうしの争い

しかし、越前を任された朝倉家の旧臣たちの間では、対立が生まれていました。

富田長繁の乱

1574年、朝倉家の旧臣である富田長繁が、越前の守護代となった前波吉継(桂田長俊)を討ちました。

景固の最期

長繁は、続いて景固も討ちました。景固は、長繁に招かれた席で討たれたと伝えられます。

越前の混乱

この争いをきっかけに越前は大きく混乱し、やがて一向一揆が越前を支配するようになりました。

長繁の最期

富田長繁も、まもなく一向一揆の勢力と争い、討たれました。

信長の越前攻め

1575年、信長は再び越前に攻め込み、一向一揆を鎮めました。越前は柴田勝家に与えられました。

旧臣たちの運命

朝倉家の滅亡の後、越前を任された旧臣たちの多くは、互いの争いの中で命を落としました。

景固の評価

景固は、朝倉家の重臣から信長に従い、越前の一部を任されながら、朝倉旧臣どうしの争いの中で討たれた武将です。その最期は、朝倉家の滅亡後の越前の混乱を物語っています。

このイラストについて

甲冑姿の武将が、煙の立ちのぼる城下町と建物を背にした姿です。

煙の立ちのぼる城下町は、朝倉家の滅亡の後、旧臣どうしの争いと一向一揆によって混乱した越前をイメージしています。厳しい表情は、その混乱の中で命を落とした景固の運命を表しています。顔立ちは想像によるものです。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

朝倉家

越前の守護代から身を起こした家。朝倉孝景(英林)が応仁の乱をきっかけに越前を手に入れ、本拠の一乗谷には京都から公家や文化人が集まって城下町が栄えた。一族の朝倉宗滴は長く軍事面で家を支えた。

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主家

家臣団

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