得居通幸 | 来島通総の兄、伊予鹿島城を拠点にした海の武将

得居通幸のイラスト(イメージ)

とくい みちゆき

地域四国(伊予)
所属勢力・属性河野氏→豊臣氏
大名家来島村上氏(得居家)
家紋―
主武器水軍(船いくさ)
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ水軍の将

得居通幸は、瀬戸内海で力をふるった来島村上氏の一族である。村上通康の長男に生まれ、一族の得居家を継いだ。弟の来島通総とともに豊臣秀吉の水軍として働き、文禄の役で戦死した。

目次

来島村上氏に生まれる

得居通幸は永禄元年(1558)に生まれた。父は村上通康である。村上氏は瀬戸内海の島々を拠点にした海の武士団で、能島・因島・来島の三つの家に分かれていた。通康はこのうち来島の家を率い、伊予の大名河野氏に仕えていた。

通幸は長男だったが、来島の家は四男の通総が継いだ。通幸は村上水軍の一族である得居家を継ぎ、得居を名乗った。名は「通之」とも書き、通称は半右衛門である。

本能寺の変のあと伊予に残る

天正10年(1582)6月、織田信長が本能寺で倒れた。このころ来島の家は主家の河野氏から離れ、羽柴(豊臣)秀吉に近づいていた。河野氏と結ぶ毛利氏の攻撃を受けると、弟の通総は秀吉のもとへ逃れた。

通幸は伊予にとどまった。風早郡(今の松山市北条あたり)の恵良山城や鹿島城を拠点に強い勢力を保ち、毛利氏に抵抗を続けたという。鹿島は北条の港の沖に浮かぶ小さな島で、中世には河野氏の海の拠点の一つであった。

秀吉の水軍として

やがて秀吉は四国平定の軍を送った。通幸は水軍を率いてこの戦いに加わった。四国平定ののち、通幸は風早郡で3000石を与えられた。弟の通総は1万4000石の大名となっている。

文禄元年(1592)に朝鮮への出兵(文禄の役)が始まると、通幸は通総とともに水軍を率いて海を渡った。そして文禄2年(1593)に戦死したとされる。36歳であった。

来島家のその後

弟の通総も慶長2年(1597)、慶長の役で戦死した。来島の家は通総の子の康親が継いだが、関ヶ原の戦いで西軍に味方した。そのため慶長6年(1601)、豊後国森(今の大分県玖珠町)へ移された。

森に移ってからの当主は「久留島」と名乗るようになった。森藩1万4000石は幕末まで続き、明治時代には子爵となった。海から離れた山あいの小藩ではあったが、通幸と同じ村上水軍の流れをくむ家は江戸時代を生きぬいたのである。

ゆかりの地

  • 鹿島(愛媛県松山市北条):通幸が拠点にした鹿島城があった島。中世は河野氏の海の拠点の一つ

参考にした資料

得居通幸とは

得居通幸は、伊予の来島村上家の出身で、来島通総の兄です。

来島村上家

来島村上家は、瀬戸内海の来島を本拠とした水軍の一族です。能島・因島の村上家とともに「三島村上水軍」と呼ばれました。

秀吉に味方

本能寺の変ののち、来島村上家は毛利家から離れ、秀吉に味方しました。

朝鮮での戦い

文禄の役では、通幸も水軍を率いて朝鮮に渡り、戦いの中で命を落としたと伝えられます。

評価

通幸は、来島村上家の一族として瀬戸内の海で戦い、秀吉の水軍の一翼を担った武将です。

このイラストについて

このイラストは、船の浮かぶ海を背に、刀を手に立つ通幸を描いています。

金色の羽織と鋭い目つきで、海で戦った水軍の武将の気迫を表しました。

帆を張った船と島々は、来島村上家が活躍した瀬戸内の海をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

来島村上家

村上水軍三家のうち、伊予の来島を拠点とした来島村上氏。河野氏の重臣として仕えていた。

来島村上家の歴史と武将一覧を見る →

主家

来島通総
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