いろべ みつなが
| 地域 | 甲信越 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 上杉家臣 |
| 大名家 | 上杉 |
| 家紋 | 丸に三ツ柏 |
| 主武器 | 大槍 |
| 衣装・甲冑 | 塗具足 |
| 武将タイプ | 剛毅・忠義 |
揚北衆と色部氏という家柄
越後北部を流れる阿賀野川の北岸一帯は古くから揚北と呼ばれ、この地に深く根を張った国衆たちは揚北衆と総称され、守護や守護代からも半ば独立した気風を強く保ちながら、外部の権力に容易には屈せず自らの所領を治める在地領主として広く知られていたと伝わる。色部氏はその揚北衆の中核をなす有力な一族で、小泉荘の要地に築かれた平林城を本拠として周辺の村々をあまねく治め、鎌倉以来の由緒を誇る古い名門の家柄として越後の政治のなかで確かな存在感をきわめて長きにわたって示し続けていたとされる。
色部勝長と川中島の武功
色部光長の系譜をたどるうえでどうしても欠かせないのが、一族の当主として名を刻んだ色部勝長であり、上杉謙信のもとで越後の統一と信濃への相次ぐ出兵に加わり、揚北衆の精兵を率いて幾度となく苛烈な戦陣に身を置いたと伝えられている。とりわけ1561年の第四次川中島の戦いでは、宿敵である武田信玄の大軍と正面から激しく激突するなかで勝長は実に目覚ましい働きを見せ、謙信じきじきに感状を与えられるほどの際立った戦功を挙げたと後世の数々の諸書に記されている。
本庄繁長の乱と勝長の最期
謙信への忠勤をひたすら重ねてきた勝長であったが、1568年に同じ揚北衆の本庄繁長が武田方に密かに通じて反旗を翻すと、その鎮圧に向かった上杉方の一員として村上の本庄城を攻めるきわめて激しい戦いにみずから身を投じたと伝わっている。この本庄繁長の乱の凄まじい激戦のさなかに勝長は無念の討死を遂げたとされ、揚北衆同士が敵味方に分かれて刃を交え合う越後の複雑きわまる国衆秩序の厳しさを、その壮絶な最期は今なおあまりにも色濃く映し出しているというべきであろう。
顕長の継承と世代の錯綜
勝長の没後、色部氏の家督はその子とされる顕長が継いだと伝わるが、光長を含む一族の世代の関係については残された史料が乏しく、続柄や襲名の時期をめぐってはさまざまな諸説が入り乱れ、今なおはっきりとは判然としない部分も少なくない。こうした系譜の錯綜は戦国期の地方の国衆にはしばしば見られるもので、同じ通字を用いる似通った名や幾つもの養子縁組が幾重にも絡むため、色部氏の系図もまた後世に整理されていく過程のなかで複数の異なる伝えを生み出したと考えられている。
色部光長という当主像
光長は勝長・顕長に続く色部氏の当主として確かに名の伝わる数少ない人物で、川中島以来の武名を負う誇り高い一族を一身に深く背負い、揚北衆の領主としての務めと上杉家への変わらぬ奉公とを常に同時に果たす重い立場にあったとされる。史料の乏しさという制約から個々の細かな事績を余すところなく追うことは難しいものの、動乱の絶えぬ越後にあって家名と大切な所領を懸命に守り抜き、上杉家の屋台骨を地方から静かに支え続けた武将の像を十分に描くことはできるといえよう。
上杉謙信への奉公と揚北衆の立場
色部氏をはじめとする揚北衆は、上杉謙信にとって単なる家臣というよりも、むしろ盟約によって固く結びついた半ば独立した国衆連合に近い存在であり、その一族の積極的な協力なくして越後一国の統治はとうてい成り立ちえなかったと伝わる。謙信もまた彼らの根強い自立性を重んじつつ関東や信濃への遠征にたびたび動員しており、色部氏は一族の精兵をみずから率いて幾度も遠い国外の戦陣に加わり、上杉の強大な軍事力を最も底辺のところから力強く支える役割を担っていたとされる。
御館の乱と景勝への帰属
1578年に謙信が跡目を定めぬまま急死すると、その家督をめぐって養子の景勝と景虎が争う御館の乱が勃発し、越後の国衆はそれぞれの利害と立場に応じて真っ二つの陣営に分かれ、揚北の地もまた大きく激しく揺れ動いたと伝えられている。色部氏はこの凄惨な内乱を経て上杉景勝の新たな支配体制へと組み込まれていったとされ、光長もまた新しい主君のもとで一族を率い、なおも揺らぐ越後の秩序のなかで家の存続を図るというきわめて難しい舵取りを迫られたと考えられている。
同僚たる本庄氏と新発田氏
揚北衆には色部氏のほかにも、かつて謙信に公然と叛いた歴戦の本庄繁長や、勇将として世に広く名高い新発田氏など、いずれ劣らぬ独立心のきわめて強い国衆が数多く並び立ち、互いに競い合いながら広い越後北部の地を分け合っていたと伝わる。彼らは時に上杉方として肩を並べて共に懸命に戦い、時には激しく反目して互いに刃を交える危うい間柄でもあり、色部光長もまたこうした一筋縄ではいかぬ同僚たちとの微妙な均衡のなかで、一族の立ち位置を常に慎重に見定めつづけていたとされる。
新発田重家の乱と色部氏
景勝の代になると、恩賞への根深い不満からついに新発田重家が公然と挙兵し、遠く織田方とも密かに結んで長きにわたり上杉に抵抗する新発田重家の乱が越後全土を大きく揺るがし、揚北衆は再びその去就を厳しく問われる立場に置かれたと伝わる。この長く続いた激しい動乱のなかで色部氏がいかなる態度を取ったかは史料には明らかでない点も多いが、最終的には上杉方の一員として景勝の勝利へと確かに連なる道を歩んでいったと見るのが、のちの諸書がおおむね一致して伝えるところとなっている。
史料の限界と色部氏の記憶
色部光長個人の生涯は、勝長の川中島や本庄繁長の乱に比べて後世に伝わる具体的な逸話が実にきわめて少なく、その実像を鮮明かつ確かに描き出すには史料があまりにも限られているのが実情であり、その多くを時代の状況から推し量るほかない。それでもなお川中島に確かな武名を刻んだ誇り高い名族の当主として、越後の激しく揺れ動いた戦乱の時代を上杉家とともに懸命に生き抜いた色部氏の歩みは、揚北衆という地方の勢力の姿を後の世に今なお伝えるきわめて貴重な手がかりであり続けている。













































