杉若無心 | 秀長の重臣として紀伊・田辺をおさめた武将。上野山城を築き、関ヶ原で西軍について改易

杉若無心のイラスト(イメージ)

すぎわか むしん

地域近畿(紀伊・田辺)
所属勢力・属性豊臣氏(秀長・秀保の重臣、のち秀吉の直属)
大名家杉若氏
家紋不詳
主武器不詳(舟手を率いたとされる)
衣装・甲冑具足・陣羽織
武将タイプ城づくりと水軍の将

杉若無心(すぎわか むしん)は、安土桃山時代の武将で、豊臣秀長と、その跡を継いだ豊臣秀保に仕えた重臣である。通称は藤七、官途名は越後守。生まれた年も亡くなった年もわかっていない。天正13年(1585年)の紀州征伐のあと、紀伊の田辺(和歌山県田辺市)をまかされ、上野山城を築いて城下町を整えた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍についたため、所領を失った。

3行でわかる杉若無心
  • 越前の出身で、もとは朝倉氏の家臣だったとされる
  • 紀州征伐のあと紀伊・田辺の領主となり、上野山城と城下町をつくった
  • 秀長・秀保の死後は秀吉の直属(1万9千石)となったが、関ヶ原で西軍につき改易された
目次

越前から豊臣家へ

無心は越前国(福井県)の出身で、朝倉義景の朝倉氏に仕えていたとされる。朝倉氏は天正元年(1573年)に織田信長に滅ぼされるが、そのあと無心がどのような道筋で豊臣家に仕えるようになったのかは、はっきりしていない。

手がかりの一つが娘たちの嫁ぎ先である。娘の一人は織田家の重臣・丹羽長秀の側室となり、のちに藤堂高虎の養子となる藤堂高吉を産んだ。ほかの娘も神保相茂や公家の広橋総光に嫁いでいる。丹羽家とのつながりを通じて羽柴家に近づいたとみる見方もある。

紀州征伐と田辺の領主

天正13年(1585年)、羽柴秀吉は根来・雑賀など紀伊の勢力を攻めた(紀州征伐。太田城の水攻めもこの戦いのひとつ)。無心は秀吉の弟・秀長の軍に加わり、南紀の湯河直春の拠点だった芳養泊城(泊山城、田辺市芳養町)を攻め落とした。仙石秀久らとともに攻めたとも伝わる。

戦いのあと、紀伊は大和とともに秀長の領地となった。無心は田辺の領主として泊山城に入り、和歌山城をあずかった桑山重晴とともに、秀長の紀伊支配を支えた。湯河氏などの地元の勢力が山にこもって抵抗を続けたため、南紀をおさめるのは簡単な仕事ではなかった。

上野山城と田辺の町づくり

天正18年(1590年)、無心は新しい居城として上野山城を築き、あわせて城下町の整備を進めた。上野山城の正確な場所はわかっていないが、田辺の市街地にある八立稲荷神社のあたりとする説がある。

田辺は熊野への入り口にあたる港町で、無心は熊野の水軍をまとめる役目も担ったとされる。秀長の領国では熊野の山から切り出す材木が大切な産物で、秀長の家臣・吉川平介が材木の売り上げを着服して処刑される事件も起きている(吉川平介事件の材木はどこへ?)。

秀長・秀保の死と、秀吉の直属へ

天正19年(1591年)に秀長が亡くなると、無心は跡を継いだ秀長の養子・豊臣秀保に仕えた。文禄年間(1592〜1595年)には家督を子の杉若氏宗にゆずっている。文禄の役(朝鮮出兵)では、杉若家は舟手(水軍)として650人の兵を出したとされる。

文禄4年(1595年)に秀保が17歳で亡くなり、秀長の家が絶えると、杉若家は豊臣秀吉の直属の大名となり、1万9千石を領した。秀長の家臣たちは、藤堂高虎のように秀吉に取り立てられて大きく出世した者もいれば、別の家に移った者もいた(豊臣秀長の家臣一覧)。

関ヶ原の戦いと改易

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、無心は氏宗とともに石田三成らの西軍についた。近江の大津城攻めに加わったとも、西軍の敗報を聞いて徳川方に従ったとも伝わる。いずれにしても戦後、杉若家は所領を没収された。紀伊は浅野幸長の領地となり、田辺には浅野家の一族・浅野氏重が入った。

改易のあと、無心は京に住み、慶長7年(1602年)ごろまでは公家と付き合っていたことがわかっている。その後の消息ははっきりしない。

杉若無心をめぐる人物

  • 主君:豊臣秀長/豊臣秀保/豊臣秀吉
  • 子:杉若氏宗
  • 娘の嫁ぎ先:丹羽長秀(側室)/神保相茂/広橋総光
  • 孫:藤堂高吉(丹羽長秀の子、藤堂高虎の養子)
  • 紀伊の同僚:桑山重晴(和歌山城)
  • 紀州征伐で戦った相手:湯河直春

ゆかりの地

  • 上野山城跡(和歌山県田辺市):無心が天正18年(1590年)に築いた居城。八立稲荷神社のあたりとする説がある
  • 泊山城跡(芳養泊城跡)(和歌山県田辺市芳養町):紀州征伐で攻め落とし、最初に入った城
  • 大和郡山城(奈良県大和郡山市):主君・秀長の居城
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