木山弾正 | 肥後天草五人衆の一人(木山神兵衛)。天草合戦において加藤清正と凄絶な一騎打ちを展開したと伝わる伝説の豪傑

木山弾正のイラスト(イメージ)

きやま だんじょう

地域九州
所属勢力・属性肥後国人
大名家肥後国人
家紋丸に違い鷹の羽
主武器大太刀・大槍
衣装・甲冑漆黒重厚具足
武将タイプ「肥後の豪傑」・一騎打ち

肥後天草五人衆の一人(木山神兵衛)。天草合戦において加藤清正と凄絶な一騎打ちを展開したと伝わる伝説の豪傑。

目次

木山弾正とは

木山弾正は、肥後の国衆・木山氏の武将として伝えられる人物です。後の世の軍記物や伝承に描かれる部分が多く、実像にははっきりしない点が多くあります。

木山城

木山氏の本拠は、肥後の益城(今の熊本県益城町)の木山城とされます。熊本平野の東にあり、阿蘇や豊後へ向かう道に近い場所でした。

天草五人衆

天草には、志岐・天草・上津浦・栖本・大矢野の五つの国衆がいて、「天草五人衆」と呼ばれました。木山弾正は、天草の国衆と縁を結んだと伝えられます。

加藤清正と小西行長

肥後国衆一揆ののち、肥後の北半分は加藤清正、南半分は小西行長に与えられました。天草は、小西行長の領地となりました。

天草国人一揆

天正17年(1589年)、小西行長の城普請への動員などに反発して、天草の国衆が立ち上がりました。行長は、加藤清正の援軍を得てこれを鎮めました。

志岐城と本渡城

一揆では、志岐城や本渡城が戦いの舞台となりました。本渡城では、城兵が最後まで激しく戦ったと伝えられます。

清正との一騎打ち

木山弾正が加藤清正と一騎打ちをしたという話は、天草の戦いの名場面としてよく知られています。ただし、この話は後の時代の軍記物にもとづくもので、史実かどうかははっきりしません。

お京の伝説

弾正の妻が男装して戦い、清正の軍に討たれたという話も伝わっています。天草には、こうした一揆の話がいくつも語り継がれています。

采配

采配は、紙や布の房を棒の先に付けた道具で、戦場で兵を指図するのに使われました。大将の持ち物として、その立場を示すものでもありました。

一揆のその後

天草の国衆の多くは、この一揆を最後に力を失いました。天草はその後、小西家、さらに寺沢家の領地となりました。

天草の今

天草市の本渡には、この戦いにまつわる史跡や供養塔が残り、地元の歴史として伝えられています。

天草の島々

天草は、大小百あまりの島からなる地域です。海に囲まれた島々では、漁業と海の交通が人々の暮らしを支えていました。

キリシタンの島

天草は、のちにキリスト教が広まった土地としても知られ、島原・天草一揆の舞台にもなりました。

本渡城跡

本渡城の跡は、今は城山公園として整えられ、天草の歴史を伝える場所になっています。

評価

木山弾正は、天草の戦いで加藤清正と渡り合ったと語られる豪傑です。その姿の多くは伝承の中にありますが、天草の人々の記憶に深く残る人物といえます。

このイラストについて

このイラストは、山城と陣の旗を背に、采配を高く掲げる木山弾正を描いています。

前立ての付いた兜と、天に向けて振り上げた采配で、兵を率いて戦場に立つ豪傑の勢いを表しました。

夕日に染まった山並みと兵の列は、天草の戦いをイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

肥後国人衆

肥後では守護の菊池氏が衰えた後、阿蘇氏や、隈部・城・赤星・甲斐などの国衆がそれぞれの地域を治めていた。彼らは大友・龍造寺・島津という周りの大勢力のあいだで、従う相手を変えながら生き残りをはかった。

肥後国人衆の歴史と武将一覧を見る →

家臣団

和仁親宗のイラスト(イメージ)和仁親実のイラスト(イメージ)城親基のイラスト(イメージ)城親賢のイラスト(イメージ)小代親泰のイラスト(イメージ)辺春親行のイラスト(イメージ)隈部親永のイラスト(イメージ)隈部親泰のイラスト(イメージ)
  • URLをコピーしました!

ほかの武将も見る

目次