せき なりまさ
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 織田家臣 |
| 大名家 | 織田 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 塗具足 |
| 武将タイプ | 勇猛・忠義 |
織田信忠に仕えた尾張の武将。森可成の娘を妻とし、森長可の義兄にあたる。小牧・長久手の戦いで戦死したと伝わり、子孫は津山森家・新見藩関家につながる。
関成政とは
関成政(せき なりまさ)は、織田家に仕えた尾張の武将である。系譜にもとづく解説では、天文21年(1552年)に織田家臣・関成重の長男として生まれたとされる。
正室は森可成の娘である。つまり成政は、森長可・森蘭丸・森忠政らの姉妹の夫にあたる。長可の実の兄ではなく、義理の兄弟という関係である。森可成の男子は、長男の可隆、次男の長可、以下蘭丸・坊丸・力丸・忠政と数えられる。
織田信忠に従った戦い
成政は織田信忠(信長の嫡男)の側近として、長島一向一揆の攻撃、長篠の戦い、有岡城の戦いなどに従ったとされる。天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱、天正10年(1582年)の甲州征伐(武田攻め)にも加わったと伝わる。
本能寺の変で信長・信忠が亡くなると、織田信雄に仕えた。しかし天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀吉方に転じたとされる。長久手の戦いで森長可が討死したのち、徳川勢に斬り込んで戦死したと伝わる。
これらの経歴は主に後世の系譜・家伝による記述である。同時代の文書でどこまで裏付けられるかは、確認できていない。
子孫と津山森家・新見藩関家
成政の子のうち、関成次(五男とされる)は森忠政に仕え、忠政の娘を妻とした。その子が、外祖父の忠政の養子となって森家を継いだ森長継である。長継は美作津山藩(岡山県津山市)の2代藩主で、本姓は関であった。
元禄10年(1697年)、津山藩主・森長成の代で津山森家の領地が収公(没収)されると、一族の関長治に備中国のうち1万8000石が与えられ、新見藩(岡山県新見市)が成立した。長治の父・長政は森長継の弟である。関家は明治維新まで新見を治めた。成政は、この関家の系譜の上で名前が挙がる人物である。
ゆかりの地
- 長久手古戦場(愛知県長久手市):天正12年の長久手の戦いの地。成政はこの戦いで戦死したと伝わる
- 津山城跡(岡山県津山市):成政の孫・森長継が2代藩主を務めた津山藩の城
- 新見(岡山県新見市):成政の子孫の関家が元禄10年から明治まで治めた新見藩の地
参考にした資料
関家
関家は、美濃の関の地にゆかりのある家とされ、成政が継ぎました。
織田信忠に従う
成政は、信長の嫡男・信忠に従って、各地の戦いに加わったとされます。
子孫と新見藩
成政の家は、のちに森家の家臣となり、さらに備中の新見藩の藩主となりました。
評価
成政は、森家の一族として関家を継ぎ、のちの新見藩の関家の基礎を築いた人物です。
このイラストについて
このイラストは、雪の舞う陣を背に立つ成政を描いています。
赤い羽織と引き締まった顔つきで、戦場に立つ武将の姿を表しました。
雪の山と旗は、成政が戦った戦場をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
尾張守護代のうち清洲織田家に仕えた三奉行の一家、弾正忠家から出た。信長の父信秀は津島や熱田の商業の富を背景に台頭し、主家をしのぐ力を持った。
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