あゆかい むねのぶ
| 地域 | 出羽国置賜郡(山形県白鷹町) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 伊達氏配下の国人 |
| 大名家 | 鮎貝氏(伊達氏に従う) |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 不明 |
| 衣装・甲冑 | 不明 |
| 武将タイプ | 国人領主 |
鮎貝宗信(あゆかい むねのぶ)は、出羽国置賜郡の鮎貝城(山形県白鷹町)の城主である。伊達氏に従う国人だったが、最上氏と結んで伊達政宗に背き、天正15年(1587)に攻められて城を追われた。鮎貝家は弟の宗定が継ぎ、伊達家とともに陸奥へ移った。
鮎貝氏と鮎貝城
鮎貝氏は藤原氏の流れをくむと伝わる家である。応永3年(1396)、鮎貝成宗が最上川左岸の段丘の上に鮎貝城を築いたのが始まりとされる。
鮎貝氏は伊達氏の家臣でありながら、自分の領地をかなり独立して治めていた。置賜郡の北の端にあたり、隣の最上氏の領地と接する場所である。宗信はこの家の7代目の当主とされる。
鮎貝城は、本丸と二の丸などからなる複郭式の平山城である。最上川を見下ろす高台にあり、置賜と最上を結ぶ道を押さえる守りの城だった。
最上氏と結んで伊達政宗に背く
宗信の時代、伊達家の当主は若い伊達政宗であった。政宗は周りの大名と争いを広げており、山形の最上義光との仲も悪くなっていた。
宗信は最上家と縁を結んだ。最上義光の姉を妻にしたとも伝わる。こうして宗信は伊達家と対立し、天正15年(1587)、謀反を起こそうとした。ところが宗信の父と弟が伊達家のもとへ逃れ、宗信の謀反を知らせたという。
政宗の攻撃と鮎貝城の落城
知らせを受けた政宗は、米沢城から兵を出して鮎貝城を攻めた。宗信は敗れて城を捨て、逃げ落ちた。家の中から背いた主を見限る者が出たことが、敗北を早めたと考えられる。
宗信が去ったあと、鮎貝家は弟の宗定が継いだ。家そのものは取りつぶされず、伊達家の家臣として残ったのである。
その後の鮎貝家と鮎貝城
天正19年(1591)、政宗が米沢から岩出山(宮城県)へ移されると、鮎貝氏も政宗に従って置賜を離れた。鮎貝家は柴田郡堤村(宮城県)へ移ったとされる。
鮎貝城はその後、蒲生氏郷の支配を経て、関ヶ原の戦いのあとは上杉景勝の領地となり、城代が置かれた。いま本丸・二の丸の跡には鮎貝八幡宮が建ち、土塁や水堀の一部が残っている。
ゆかりの地
- 鮎貝城跡(山形県西置賜郡白鷹町鮎貝):宗信の居城。土塁や水堀の一部が残る
- 鮎貝八幡宮(山形県西置賜郡白鷹町鮎貝):城跡に建つ神社。本殿は県指定有形文化財
参考にした資料
鮎貝宗信とは
鮎貝宗信は、出羽の鮎貝城を本拠とした鮎貝氏の当主です。伊達家に仕えていました。
鮎貝城
鮎貝城は、今の山形県白鷹町にあった城です。
政宗への反抗
天正15年(1587年)、宗信は最上義光と結んで伊達政宗に背いたと伝えられます。
鮎貝城の落城
政宗は、すぐに鮎貝城を攻め落としました。宗信は最上家のもとへ逃れたとされます。
評価
宗信は、伊達家と最上家の間で揺れ、政宗に背いた国衆の当主です。その行動は、出羽と陸奥の境の緊張を伝えています。
このイラストについて
このイラストは、雪の野で、槍を手に身構える宗信を描いています。
毛皮の衣と鋭い目つきで、雪国の武将の力強さを表しました。
雪をかぶった城と兵は、鮎貝城をめぐる戦いをイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
陸奥国伊達郡を発祥とする家。伊達稙宗と子の晴宗が争った天文の乱(1542〜48年)で一時は勢力を弱めたが、晴宗・輝宗の代に立て直した。
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