教如 | 本願寺顕如の長男。石山合戦で最後まで信長に抵抗し、のちに家康の支援で東本願寺を開いた

教如のイラスト(イメージ)

きょうにょ

地域近畿(大坂・京)
所属勢力・属性本願寺(東本願寺の開祖)
大名家本願寺
家紋下がり藤
主武器―
衣装・甲冑法衣
武将タイプ強硬派の門主

教如(きょうにょ)は、本願寺第11代門主・顕如の長男で、東本願寺を開いた僧である。永禄元年(1558年)に生まれ、慶長19年(1614年)に57歳で亡くなった。石山合戦では父が信長と和睦したあとも大坂の本願寺にとどまって抵抗を続けた。のちに徳川家康の支援を受けて東本願寺を開き、本願寺は東西に分かれることになった。

3行でわかる教如
  • 本願寺顕如の長男で、石山合戦では父とともに信長と戦った
  • 父が和睦したあとも籠城を続けたため、父から義絶された
  • 秀吉に門主を退かされたが、のちに家康から土地を与えられ東本願寺を開いた
目次

石山合戦と籠城

教如は顕如の長男として生まれ、元亀元年(1570年)に始まった石山合戦では、父とともに織田信長と戦った。

天正8年(1580年)、顕如は朝廷の仲立ちで信長と和睦し、大坂の本願寺を出て紀伊の鷺森に移った。しかし教如は和睦に反対し、一部の門徒とともに大坂にとどまって抵抗を続けた。のちに教如も大坂を退いたが、その直後に本願寺の建物は焼け落ちた。顕如は命令に背いた教如を義絶(親子の縁を切ること)した。

門主を退かされる

のちに顕如と教如は和解した。天正20年(1592年)に顕如が亡くなると、教如が門主を継いだ。しかし翌年、豊臣秀吉は、顕如の妻の訴えなどを受けて、教如に門主を弟の准如にゆずるよう命じた。教如は隠居させられたが、教如を支持する門徒も多く、本願寺の中に対立が残った。

東本願寺の始まり

慶長7年(1602年)、徳川家康は教如に京の烏丸六条の土地を与えた。教如はここに新たな寺を建て、これが東本願寺(真宗本廟)の始まりとなった。准如の本願寺は西本願寺と呼ばれ、本願寺は東西に分かれることになった。巨大な本願寺の力を分ける家康のねらいもあったといわれる。

教如をめぐる人物

  • 父:本願寺顕如
  • 弟:准如(西本願寺の門主)
  • 側近:下間頼龍
  • 戦った相手:織田信長
  • 支援した天下人:徳川家康

ゆかりの地

  • 東本願寺(真宗本廟)(京都市下京区):教如が開いた寺
  • 大阪城(石山本願寺跡)(大阪市中央区):教如が籠城した本願寺の跡地
  • URLをコピーしました!

ほかの武将も見る

目次