たちはら ひさつな
| 地域 | 中国(出雲) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 尼子家家臣・尼子再興軍 |
| 大名家 | 尼子家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | ― |
| 衣装・甲冑 | ― |
| 武将タイプ | 智将・交渉役 |
立原久綱は、出雲の尼子家に仕えた武将で、通称を源太兵衛という。山中鹿介の母の弟、つまり叔父にあたる。尼子家が滅んだのちも鹿介とともに尼子再興の戦いを続け、とくに交渉の面で力を発揮した。
尼子家に仕えた立原氏
立原氏は、尼子氏の直臣である富田衆の一つに数えられた家である。本貫は今の島根県雲南市加茂町近松とされ、近松城を本城としていた。久綱は立原家の次男で、兄に立原幸隆がいたとされるが、父や兄についての記述は資料によって異なる。
生まれは享禄4年(1531)とする資料がある。尼子家は出雲の月山富田城を本拠に、中国地方の広い範囲を従えた戦国大名であった。久綱は当主・尼子義久の側近として仕え、家中では中老衆の一人とされる。
月山富田城の籠城
永禄年間、尼子家は安芸の毛利元就に攻めこまれ、次々に城を失っていった。久綱は三刀屋城攻めで先発隊を率い、白鹿城の戦いでは救援に向かって殿軍を務めたという。
やがて月山富田城が囲まれると、久綱は最後まで城にとどまり義久を支えた。永禄9年(1566)に城が開かれたときには、毛利方との話し合いの役を務めたとされる。こうして戦国大名としての尼子家はいったん滅んだ。
尼子再興の戦い
その後、久綱は甥の山中鹿介らとともに尼子勝久を当主に立て、尼子家の再興をめざした。出雲に攻め入り、各地の城で毛利勢と戦ったが、しだいに追いつめられていく。鹿介の父親代わりのような存在であったといわれ、尼子再興軍では政治や交渉の面で手腕を発揮した。
天正4年(1576)ごろには京都で織田信長と接触する交渉を進めた。信長は久綱を「男も良いが、立ち振る舞いもりっぱだ」とほめたと伝わる。再興軍は信長配下の羽柴秀吉に属し、播磨の上月城に入った。
上月城の落城と晩年の伝承
天正6年(1578)、上月城は毛利の大軍に囲まれて落城した。勝久は自害し、鹿介も捕らえられたのちに命を落とした。久綱も吉川元春に捕らえられたが、のちに逃げ出したという。
晩年については言い伝えが分かれる。娘婿の福屋隆兼を頼って阿波に移り、慶長18年(1613)にそこで亡くなったとする資料がある。一方、松江市東津田には、久綱が同志たちの菩提を弔いながら各地を歩き、この地で田畑を開いて長源寺を開き、そこで没したという言い伝えが残る。長源寺の墓地には、子孫と思われる立原家の代々の墓もある。
ゆかりの地
- 長源寺(島根県松江市東津田町):久綱が開き、そこで没したと地元で伝わる寺
- 月山富田城跡(島根県安来市広瀬町):尼子家の本城。久綱が最後まで籠城した城
参考にした資料
立原久綱とは
立原久綱は、出雲の尼子家に仕えた武将で、山中幸盛の叔父とされます。
上月城の落城
天正6年(1578年)、上月城が落ち、尼子勝久は自害しました。久綱は生き延びたと伝えられます。
評価
久綱は、甥の山中幸盛とともに尼子家の再興に力を尽くした武将です。晩年については、いくつかの伝えが残されています。
このイラストについて
このイラストは、山城と陣を背に立つ久綱を描いています。
落ち着いた表情と使い込まれた甲冑で、長く主家のために戦った武将の重みを表しました。
霧の立つ山々と城は、尼子家の月山富田城をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
出雲の守護・京極氏の守護代だった家。尼子経久が月山富田城を拠点に主家から自立し、戦国大名へと成長した。孫の晴久の代には山陰・山陽の八か国の守護職を得て、中国地方で最大級の勢力となった。
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