浅井長政 | 北近江の戦国大名。信長の妹・お市を妻とするも織田・朝倉の板挟みとなり姉川の戦いに散った

あさい ながまさ

地域近畿
所属勢力・属性浅井氏
大名家浅井氏
家紋三つ盛木瓜
主武器太刀
衣装・甲冑塗具足
武将タイプ義理・悲壮
目次

浅井長政とは

浅井長政は、北近江三郡を領した戦国大名である。織田信長の妹であるお市の方を妻に迎え、一時は信長の最も重要な同盟者であった。ところが元亀元年(1570年)、信長が越前の朝倉氏を攻めると、長政は突如として離反する。この裏切りは信長を生涯最大の危機に陥れ、以後三年に及ぶ死闘の始まりとなった。小谷城に籠もって戦い抜いた末、二十九歳の若さで自刃する。しかし妻と三人の娘は生き延び、その血筋は豊臣と徳川の双方へ流れ込んでいった。若くして家を継ぎ、義理と実利の板挟みのなかで滅んだ武将。浅井長政の生涯を、順を追ってたどっていく。

北近江の浅井氏

浅井氏は近江国伊香・浅井・坂田の三郡を地盤とする国人領主であった。もとは京極氏の被官であったが、祖父の浅井亮政の代に主家を凌ぐ実力を蓄える。北近江は琵琶湖の北岸に位置し、北国街道が越前へ通じる要衝である。京へも近く、東国と畿内を結ぶ物流の結節点であった。この地の利は同時に危うさでもあった。北に朝倉、南に六角、東に斎藤、そして京の情勢。

四方から圧力を受け続ける立地だったのである。亮政は越前の朝倉氏と手を結び、南近江の六角氏に対抗した。浅井と朝倉の同盟関係は、この頃から浅井家の外交の基軸となる。しかし父の浅井久政の代になると、浅井氏は六角氏に押し込まれて従属を余儀なくされた。家中には久政の弱腰に対する不満が渦巻いていく。

若き当主の誕生

長政は天文十四年(1545年)、浅井久政の子として生まれた。幼名を猿夜叉丸という。元服にあたっては六角義賢から一字を与えられ、賢政と名乗った。従属を象徴するこの名は、浅井家中にとって屈辱そのものであった。永禄三年(1560年)、家臣団は久政を隠居に追い込み、十五歳の長政を擁立する。当主の交代というより、事実上の家臣によるクーデターであった。

同年、長政は六角義賢の軍と野良田で激突する。兵力で劣りながら、若い当主は正面から打ち破ってみせた。野良田の勝利によって浅井家は六角氏の軛を脱した。長政は賢政の名を捨て、長政と改める。独立の宣言であった。十五歳での初陣にして大勝という出発は、家中の期待を一身に集めた。長政は以後、北近江の統合と支配の強化に取り組んでいく。

織田信長との同盟

永禄年間の後半、美濃を制した織田信長は上洛を志していた。その進路にあたる北近江の浅井氏を味方につけることは、信長にとって不可欠であった。信長は妹のお市の方を長政に嫁がせ、同盟を結ぶ。永禄十年から翌年にかけてのこととされる。長政にとっても悪い話ではなかった。宿敵である南近江の六角氏を、織田と挟み撃ちにできるからである。同盟は双方の利害が一致した結果であった。永禄十一年(1568年)、信長は足利義昭を奉じて上洛の途につく。

六角義賢は観音寺城を捨てて逃走し、長年の脅威はあっけなく消えた。この上洛戦で長政も出兵している。同盟者として、信長の天下取りの第一歩に立ち会ったことになる。後世の書物には、同盟の際に「朝倉家へは無断で兵を向けない」という約束が交わされたと記されている。ただしこれを裏づける同時代の史料はなく、後世の創作とみる説が有力である。

金ヶ崎の裏切り

元亀元年(1570年)四月、信長は越前の朝倉義景を討つべく大軍を発した。朝倉方の城を次々に落とし、一乗谷まであと一歩に迫る。その最中、長政離反の報が届いた。信長は当初これを信じなかったと『信長公記』は伝える。妹婿の裏切りは、それほど想定外であった。織田軍は前に朝倉、後ろに浅井という完全な挟撃の形に陥った。信長は撤退を決断し、木下藤吉郎や明智光秀らが殿を務める。世に言う金ヶ崎の退き口である。信長はわずかな供とともに朽木谷を抜け、命からがら京へ逃げ帰った。

生涯で最も死に近づいた瞬間のひとつであった。長政がなぜ裏切ったのか。浅井家と朝倉家は三代にわたる同盟関係にあり、父の久政をはじめ家中には朝倉恩顧の声が強かった。また信長の急速な膨張に対する警戒もあったとみられる。このまま織田が天下を取れば、浅井は一介の家臣に転落する。独立を保つ道は、包囲網に加わることだと判断したのであろう。義理を選んだのか、実利を計算したのか。いずれにせよ、この決断が浅井家の運命を決めた。

姉川の戦い

元亀元年六月、体勢を立て直した信長は徳川家康とともに北近江へ侵攻した。浅井・朝倉連合軍はこれを姉川で迎え撃つ。織田・徳川連合およそ三万に対し、浅井・朝倉はおよそ一万八千。数では劣るものの、長政は果敢に攻めかかった。浅井勢は織田軍の陣を十三段のうち十一段まで突き崩したと伝えられる。長政の突撃力は、信長本陣を脅かすほどであった。

しかし徳川勢が朝倉軍を破って側面へ回り込むと、戦況は一変する。浅井勢は支えきれず、小谷城へ退いた。この戦いで長政の腹心である遠藤直経が討たれた。直経は信長の首を狙って敵中に紛れ込んだが、見破られて斬られたと伝えられる。姉川は決定的な敗北ではなかったが、浅井・朝倉が野戦で織田を上回れないことを証明した。以後、長政は守勢に回る。

信長包囲網の一角として

姉川の後、長政は反織田勢力の一角として粘り強く戦った。石山本願寺、比叡山延暦寺、三好三人衆、そして甲斐の武田信玄。信長包囲網が形成されていく。元亀元年九月、浅井・朝倉軍は坂本方面へ出撃し、織田方の森可成らを討ち取った。さらに比叡山に籠もって織田軍と対峙する。志賀の陣である。雪の到来と将軍義昭の仲介によって和睦が成立し、長政は撤退した。信長にとっては屈辱的な講和であった。元亀二年(1571年)、信長は比叡山を焼き討ちにする。

浅井・朝倉に加担した延暦寺への報復であり、長政の戦いが招いた惨劇でもあった。元亀三年、武田信玄が西上を開始すると包囲網は最高潮に達する。しかし翌年四月、信玄が病没したことで、情勢は一気に信長へ傾いた。長政の孤立は決定的となる。頼みの朝倉義景は消極的で、援軍もしばしば途中で引き返した。三代の同盟は、最後の局面で力を発揮しなかった。

小谷城の落城

天正元年(1573年)八月、信長は北近江へ大軍を差し向けた。まず朝倉義景の援軍を刀根坂で撃破し、そのまま越前へ攻め入って一乗谷を焼き払う。義景は自刃し、朝倉氏は滅亡した。長政は最後の後ろ盾を失う。信長はただちに小谷城を包囲した。木下秀吉が京極丸を占拠して城を分断し、長政の父・久政の籠もる小丸を孤立させる。

八月二十七日、久政は自刃した。そして九月一日、本丸の長政も自ら命を絶つ。享年二十九であった。自刃に先立ち、長政は妻のお市と三人の娘を城から出し、信長のもとへ送り届けている。嫡男の万福丸は落ち延びたが後に捕らえられ、処刑された。浅井家はここに滅んだ。亮政・久政・長政の三代、およそ五十年の支配であった。

髑髏の杯の伝説

『信長公記』には、天正二年(1574年)の正月、信長が朝倉義景・浅井久政・浅井長政の首を薄濃にして家臣に披露したという記述がある。薄濃とは、漆を塗り金粉などで彩色する装飾のことである。この記述が後世、髑髏を杯にして酒を飲んだという話へ膨らんでいった。実際には杯にしたとまでは書かれておらず、当時としては敵将の首を供養する意味合いもあったとする見方もある。とはいえ、義弟の首をそのように扱ったこと自体が、信長の憤りの深さを物語る。裏切りは、それほど許しがたいものであった。

お市の方と三人の娘

お市の方は信長の妹であり、当代随一の美貌と伝えられる。長政との間に茶々・初・江の三人の娘をもうけた。小谷城落城の際、お市と娘たちは織田方へ引き渡された。夫を滅ぼした兄のもとへ戻るという、過酷な運命であった。その後お市は柴田勝家に再嫁するが、天正十一年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れ、北ノ庄城でともに自刃する。二度、落城を経験したことになる。三人の娘はこのときも助け出された。

長女の茶々は豊臣秀吉の側室となり淀殿と呼ばれ、豊臣秀頼を産む。次女の初は京極高次に嫁ぎ、常高院として大坂の陣では豊臣と徳川の和睦交渉に奔走した。三女の江は徳川秀忠の正室となり、三代将軍徳川家光の母となる。長政の血は、徳川将軍家へ受け継がれたのである。長政自身は二十九で滅んだ。しかしその娘たちを通じて、浅井の血筋は豊臣と徳川という時代の両極に流れ込んだ。歴史の皮肉というほかない。

浅井家の家臣たち

浅井家を支えたのは、北近江の在地武士たちであった。海北綱親・赤尾清綱・雨森弥兵衛の三人は「海赤雨三将」と称され、家中の柱とされた。遠藤直経は長政の側近中の側近で、信長との同盟に当初から反対していたと伝えられる。姉川で信長の首を狙って討たれた最期は、その執念を示している。磯野員昌は佐和山城を守り、姉川では織田の陣を深く突き崩した猛将である。

落城後は信長に降り、その武勇を認められた。一方で、長政の離反後に織田方へ寝返る家臣も相次いだ。木下秀吉の調略が巧みだったこともあり、浅井家は内側から削られていく。北近江の国人たちは、もともと浅井氏に絶対の忠誠を誓っていたわけではない。家臣団の結束の弱さが、長政の最後の三年を苦しくした。

人物像と評価

長政は誠実で情に厚い人物であったと伝えられる。妻子を落ち延びさせた最期の采配にも、その性格がうかがえる。信長を裏切ったという一点で、長政はしばしば不義の武将として語られてきた。しかし当時の感覚では、三代続いた朝倉との盟約を破るほうが不義であった。どちらを立てても義に背く。長政が置かれたのはそういう状況であり、彼は結果として古い縁を選んだ。近年の評価は、この選択を家中の事情から説明する方向へ動いている。

父久政をはじめとする朝倉派の圧力は強く、長政個人の一存で決められる話ではなかった。若くして家督を継ぎ、家臣団に擁立された当主は、その家臣団の意向に縛られる。長政の悲劇は、彼が独裁者でなかったことに由来する。江戸期以降、長政は悲劇の武将として同情を集めてきた。近江では領民を思いやる善政の記憶とともに語られ、今も地元で慕われている。

小谷城という城

小谷城は琵琶湖の北東、小谷山の尾根に築かれた大規模な山城である。祖父の亮政が築き、三代にわたって浅井氏の本拠であった。尾根筋に沿って番所・御茶屋・大広間・本丸・京極丸・小丸・山王丸と曲輪が連なり、全長は一キロメートルを超える。戦国前期の山城としては屈指の規模である。曲輪が縦一列に並ぶ構造は、防御に優れる反面、一点を突破されると分断されやすい。

秀吉が京極丸を奪って城を二つに割ったのは、この弱点を突いたものであった。落城後、信長は小谷城を廃し、秀吉に長浜城を築かせて拠点を移した。山城の時代が終わり、平城と城下町の時代へ移る転換点でもあった。現在、小谷城跡は国の史跡に指定され、日本五大山城のひとつに数えられている。登山道を歩けば、各曲輪の跡と琵琶湖の眺望を楽しめる。

長政ゆかりの地をたどる

滋賀県長浜市の小谷城跡は、長政の生涯を最もよく感じられる場所である。麓の小谷城戦国歴史資料館では、浅井三代の歴史が展示されている。姉川古戦場は長浜市野村町付近にあり、川原に碑が建つ。血原・血川といった地名が、激戦の記憶を今に伝えている。長浜市の徳勝寺は浅井氏の菩提寺で、亮政・久政・長政の墓が並ぶ。

三代の当主が一堂に眠る場所である。福井県敦賀市の金ヶ崎城跡は、長政の離反によって信長が撤退を強いられた地である。海を望む城跡には、退き口の伝承が残る。京都の高台院ゆかりの寺や、福井の北ノ庄城跡をあわせて訪ねれば、お市と三姉妹のたどった道筋も追うことができる。

長政の領国経営

長政が北近江を治めたのは十三年ほどである。戦に明け暮れた期間ではあるが、領国の整備にも手を入れている。北国街道の宿駅を整え、琵琶湖の水運と結びつけることで、物資と人の流れを掌握しようとした。近江商人の活動基盤は、この時期にも育まれている。寺社に対しては保護と統制を併用した。竹生島や湖北の寺院に安堵状を与える一方、勢力が過大にならないよう目を配っている。また長政は、家臣の所領を確認する文書を数多く発給した。

国人の集合体という浅井家の性格上、知行の保証こそが結束を保つ手段だったのである。もっとも、それは裏返せば家臣の自立性が高いということでもあった。長政が彼らを強権で従わせられなかった事情が、ここにある。十五歳で擁立された当主が、三十歳を前に滅ぶまでの十三年。領国を近世的な体制へ組み替えるには、あまりに短い時間であった。

もし長政が裏切らなかったら

長政が信長との同盟を守り続けていたら、という問いは繰り返し立てられてきた。織田家の縁戚として、浅井氏は有力大名の地位を保った可能性が高い。北近江は畿内と北陸を結ぶ要衝であり、その価値は信長も認めていた。しかし信長の家臣団に組み込まれ、独立の大名としては終わっていたであろう。長政が守ろうとした「浅井家の自立」は、いずれ失われる運命にあった。

包囲網に加わったことで、長政は三年にわたり信長を苦しめた。武田信玄が長く生きていれば、歴史は変わっていたかもしれない。彼の賭けは、決して無謀ではなかった。結果として賭けは外れ、家は滅んだ。だが娘たちを生かしたことで、浅井の血は次の時代の中枢に残った。長政が最後に守ったのは、家名ではなく命であった。

浅井三代という視点

浅井氏の歴史は、亮政・久政・長政の三代でひとまとまりとして語られる。それぞれの性格が対照的で、家の歩みをよく表しているからである。初代の亮政は、主家である京極氏を凌いで北近江の実権を握った。下剋上の第一世代であり、朝倉氏との同盟を築いたのも彼である。二代の久政は、六角氏の圧迫に屈して従属を選んだ。無能とされることが多いが、勢力差を考えれば現実的な判断でもあった。ただし家臣団はそれを許さなかった。三代の長政は、独立を回復し、しかし最後は滅んだ。

攻めの亮政、守りの久政、そして義に殉じた長政。三代の性格の違いが、そのまま浅井氏の盛衰を形づくっている。興味深いのは、久政が生き延びる道を選び、長政が滅びる道を選んだことである。家臣団が久政を退けて長政を擁立した以上、この結末は最初から仕組まれていたのかもしれない。小谷城では父子が別の曲輪で相次いで自刃した。方針を違えた二人が、同じ日に同じ城で果てたことは、浅井氏の歴史の締めくくりとして象徴的である。

当図鑑内の関連武将

長政の運命を決めたのは、義兄であり最大の敵となった織田信長である。三代の盟約を結んだ朝倉義景を選んだことが、その分岐点となった。姉川で長政を破った徳川家康、小谷城を攻略し後に三姉妹の運命を握った豊臣秀吉、お市の方が再嫁した柴田勝家、そして金ヶ崎で殿を務めた明智光秀。あわせてご覧いただきたい。

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