あさい ながまさ
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 浅井氏 |
| 大名家 | 浅井氏 |
| 家紋 | 三つ盛木瓜 |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 塗具足 |
| 武将タイプ | 義理・悲壮 |
浅井長政は北近江の戦国大名・浅井久政の嫡男として生まれた。父の消極的な統治に不満を持つ家臣団に推されて若くして家督を継ぐと、南近江の六角氏からの独立を果たし、勢力を拡大していった。織田信長の妹・お市の方を正室に迎え、浅井・織田両家は強固な同盟関係を結ぶこととなる。
しかし1570年、信長が長政の旧来からの盟友であった越前朝倉義景を攻めると、長政は妹婿である信長との同盟よりも朝倉家との義理を優先し、信長を裏切って挟撃を図った。この決断により信長は九死に一生を得て京へ撤退する「金ヶ崎の退き口」を余儀なくされることとなる。
同年の姉川の戦いでは、朝倉氏と結んで織田・徳川連合軍と激突するが敗北。以後小谷城に籠城して抵抗を続けるも、比叡山焼き討ちや浅井・朝倉包囲網の締め付けにより次第に追い詰められていく。
1573年、盟友の朝倉義景が信長に滅ぼされると、小谷城は完全に孤立。信長軍の総攻撃を受け、長政は正室・お市の方と3人の娘たちを城から逃がした後、父・久政とともに自害して果てた。享年29という若さでの壮絶な最期であった。
妹婿でありながら義理を貫いて信長を裏切った長政の生き様は、戦国の世における「義」と「利」の相克を象徴する物語として語り継がれている。娘たちのうち茶々(淀殿)は豊臣秀吉の側室となり秀頼を生み、江は徳川秀忠の正室となるなど、長政の血脈は皮肉にも敵対した信長の後継者たちの中枢へと受け継がれていくこととなった。

