北条早雲 | 幕府に仕えた伊勢氏から伊豆・相模を制した下剋上の先駆者

ほうじょう そううん

地域関東
所属勢力・属性後北条氏初代
大名家北条
家紋三つ鱗
主武器太刀
衣装・甲冑質実具足
武将タイプ下剋上・先駆

北条早雲(伊勢宗瑞)は、室町幕府に仕えた伊勢氏の一族とされ、駿河の今川氏の後見役を務めたのち、伊豆国を平定して堀越公方を滅ぼし、戦国大名として独立を果たした人物である。

目次

「素浪人」説から「幕府の役人」へ

かつて早雲は、どこの馬の骨とも知れない素浪人から成り上がったと語られてきました。しかし近年の研究では、室町幕府で政所執事を務めた伊勢氏の一族で、備中に所領を持つ伊勢盛時という人物だったとする説が有力になっています。

将軍の側近としての前半生

盛時は若い頃、将軍足利義尚に仕える申次衆を務めたとされます。京都で幕府の実務や礼法に触れた経験は、のちに関東で領国を治めるうえで大きな財産になったと考えられています。

駿河への下向

盛時の姉(妹とする説もある)北川殿は、駿河の今川義忠に嫁いでいました。1476年に義忠が戦死すると今川家で家督争いが起こり、盛時は甥の竜王丸(のちの今川氏親)を支える立場で駿河に関わるようになります。

興国寺城を得る

1487年、盛時は家督を握っていた小鹿範満を討ち、竜王丸を今川家の当主に据えました。この功によって駿河東部の興国寺城を与えられたとされ、ここが早雲が戦国大名へと歩み出す最初の拠点となりました。

伊豆討ち入り

1493年ごろ、盛時は伊豆の堀越公方・足利茶々丸を攻めて伊豆に攻め込みました。京都で起きた明応の政変と連動した動きとも考えられています。韮山城を本拠とし、数年かけて伊豆一国を手中に収めました。

堀越公方の滅亡

伊豆を追われた茶々丸はその後も抵抗を続けましたが、1498年ごろに自害に追い込まれ、堀越公方は滅びました。室町幕府が関東を治めるために置いた公方の一つが、一人の武将の手で倒されたことになります。

小田原城の奪取

続いて盛時は相模に進出し、大森氏が治めていた小田原城を奪いました。時期は1495年ごろとも1501年ごろともいわれ、はっきりしません。のちに小田原城は北条家五代の本拠として、関東支配の中心となります。

三浦氏を滅ぼし相模を平定

相模では名門の三浦氏が大きな力を持っていました。盛時は長い攻防の末、1516年に三浦義同(道寸)を新井城で滅ぼし、相模一国を平定しました。この時すでに盛時は高齢で、生涯をかけた領国づくりでした。

検地と領国経営

盛時は1506年に相模で検地を行ったとされ、戦国大名による検地の最も早い例の一つといわれます。年貢を軽くして民を安心させたという言い伝えもあり、こうした領国経営が後北条氏の安定した支配の土台となりました。

「早雲寺殿廿一箇条」

北条家には「早雲寺殿廿一箇条」と呼ばれる家訓が伝わっています。早起きや火の用心、嘘をつかないことなど、日々の心得を説いた内容です。ただし本当に早雲本人が定めたものかどうかについては、諸説あります。

「北条早雲」という名

盛時は出家して早雲庵宗瑞と号し、生前は「伊勢宗瑞」と名乗っていました。「北条」の姓を名乗ったのは子の氏綱の代からで、「北条早雲」という呼び名は後世に広まったものです。

最期と後継者

盛時は1519年に韮山城で亡くなりました。生まれた年には1432年説と1456年説があり、亡くなった年齢は88歳とも64歳ともいわれます。跡を継いだ氏綱、孫の氏康の代に、北条家は関東の覇者へと成長していきました。

このイラストについて

濃紺の甲冑姿で扇を手にし、夕日に染まる海と、海辺の山に建つ城を背にした姿です。扇と胸元には、北条家の家紋「三つ鱗」が描かれています。

三つ鱗は鎌倉幕府の執権北条氏の家紋で、子の氏綱が「北条」を名乗った際に受け継いだものとされます。海辺の城と夕日は、伊豆から相模へと海沿いに勢力を広げ、小田原を本拠とした早雲の歩みをイメージしています。顔立ちは想像によるものです。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

北条家

室町幕府の役人だった伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆・相模を手に入れたことに始まる家。子の氏綱が鎌倉時代の執権にちなんで「北条」を名乗り、氏康の代には1546年の河越夜戦で上杉・古河公方の大軍を破って関東の覇権を握った。

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