松浦鎮信 | 平戸藩の初代藩主、オランダ商館を招いた法印

松浦鎮信のイラスト(イメージ)

まつら しげのぶ

地域九州(肥前平戸)
所属勢力・属性豊臣氏→徳川氏(東軍)
大名家松浦家(平戸藩)
家紋―
主武器水軍・鉄砲
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ大名・交易に強い領主

松浦鎮信は、肥前平戸藩の初代藩主である。豊臣秀吉の九州平定や朝鮮出兵に従い、関ヶ原の戦いでは東軍に付いて領地を守った。オランダ船を平戸に招き、平戸の海外貿易を最も盛んな時期に導いた。出家後の位から「法印」とも呼ばれる。

目次

松浦党を率いた平戸松浦氏

松浦氏は嵯峨源氏の子孫と伝わり、名前を漢字一字で名乗るのが特徴の家である。平安時代に肥前の松浦地方(今の佐賀県・長崎県)に住みつき、中世には多くの小さな武士団が集まって「松浦党」と呼ばれた。海で活躍する水軍の集団でもあった。

戦国時代になると、平戸を本拠とする平戸松浦氏が周りの一族を従え、壱岐も支配するようになった。鎮信は天文18年(1549)、この平戸松浦氏の松浦隆信(道可)の長男として平戸に生まれた。通称は源三郎である。

秀吉に従い、朝鮮へ

天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州平定で、松浦氏は秀吉に従い本領を認められた。鎮信はこの九州攻めに加わった。

天正17年(1589)、鎮信は髪をそって出家し、法印の位を受けて式部卿と称した。法名は宗静(宗信とも)である。このため平戸では「法印さま」とも呼ばれる。のちの文禄・慶長の役では、鎮信も兵を率いて朝鮮へ渡った。

関ヶ原と平戸藩の始まり

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、鎮信は徳川家康の東軍に付いた。その結果、本領をそのまま保ち、平戸藩6万3200石の初代藩主となった。

慶長14年(1609)、鎮信はオランダ船を平戸に招くことに成功し、オランダ商館が置かれた。のちにはイギリスの商館も置かれ、平戸は海外との貿易で大いににぎわった。

鎮信は慶長4年(1599)から平戸の日の岳に新しい城を築いた。ところが慶長18年(1613)、完成したばかりのこの城を自ら焼き払った。豊臣家との関係を幕府に疑われたためとする説がある。翌慶長19年(1614)5月、鎮信は亡くなった。

幕末まで続いた平戸藩

平戸藩松浦家は、鎮信のあと11代を経て明治維新をむかえ、明治時代には伯爵となった。焼かれた城は約100年後に同じ場所に建て直され、今の平戸城となっている。

なお、4代藩主にも同じ名の松浦鎮信(天祥)がいる。こちらは茶道の鎮信流を始めた人物で、初代の法印とは別人である。

ゆかりの地

  • 最教寺(長崎県平戸市):鎮信が建てた真言宗の寺。本堂裏に「法印鎮信之墓」がある
  • 平戸城(長崎県平戸市):鎮信が築いて自ら焼いた日の岳城の跡に建て直された城

平戸の南蛮貿易

平戸には、ポルトガル船やのちにはオランダ・イギリスの船が訪れ、南蛮貿易で栄えました。鎮信は、この貿易の利益を重んじました。

オランダ商館

慶長14年(1609年)、平戸にオランダ商館が置かれました。のちに長崎の出島に移されるまで、平戸は西洋との貿易の窓口でした。

法印という号

鎮信は、出家ののち法印と号しました。後の時代の同じ名の藩主と区別するため、「法印鎮信」と呼ばれることがあります。

参考にした資料

このイラストについて

このイラストは、船の浮かぶ港を背に、軍配を手に立つ鎮信を描いています。

大きな前立ての兜と赤い甲冑で、海の武士団・松浦党を率いた大名の姿を表しました。

夕日に照らされた港と南蛮船は、貿易で栄えた平戸の港をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

松浦家

肥前の平戸を本拠とした家で、海の武士団「松浦党」の流れをくむ。松浦隆信はポルトガル船を平戸に迎えて南蛮貿易で栄え、のちにオランダやイギリスの商館も平戸に置かれた。

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