高坂昌信(春日虎綱) | 武田四天王「逃げ弾正」。海津城で上杉と向き合い、『甲陽軍鑑』のもとになった語り手

高坂昌信のイラスト(イメージ)

こうさか まさのぶ

地域甲信越(甲斐・信濃)
所属勢力・属性武田氏(重臣・武田四天王)
大名家武田家(春日氏)
家紋不詳
主武器槍
衣装・甲冑具足・陣羽織
武将タイプ守りの名将

高坂昌信(こうさか まさのぶ)は、武田信玄・勝頼に仕えた重臣で、武田四天王のひとりである。本名は春日虎綱とされる。大永7年(1527年)に生まれ、天正6年(1578年)に亡くなった。信濃の海津城を長く守って上杉謙信と向き合い、武田家の軍学書『甲陽軍鑑』のもとになった話を書き残したと伝わる。

3行でわかる高坂昌信
  • 甲斐の農民の子から信玄の側近に取り立てられた
  • 海津城の城代として、川中島で上杉謙信の軍と向き合い続けた
  • 長篠の敗戦後、勝頼を迎えて武田家の立て直しを説き、『甲陽軍鑑』の語り手となった
目次

農民の子から重臣へ

昌信は甲斐の石和(山梨県笛吹市)の豪農の子として生まれ、16歳のころ信玄の近習として仕えはじめた。信玄に気に入られて取り立てられ、やがて重臣の一人となった。

慎重で、勝てない戦いからはすぐに兵を引いたことから「逃げ弾正」というあだ名がある。これはおくびょうという意味ではなく、味方を無駄に死なせない名将というほめ言葉である。

海津城の城代

永禄3年(1560年)ごろ、信玄は北信濃に海津城(のちの松代城)を築き、昌信を城代とした。海津城は、越後の上杉謙信と向き合う武田家の最前線だった。

永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いでは、昌信は妻女山の上杉軍を攻める別動隊に加わったとされる。その後も長く海津城を守り、上杉家との戦いに備えた。

長篠のあとと『甲陽軍鑑』

天正3年(1575年)の長篠の戦いのとき、昌信は海津城を守っていて戦いに加わらなかった。敗れた勝頼を迎えるさい、敗残の姿を見せないよう新しい衣服や武具を用意したと伝わる。

昌信は、武田家の歴史や信玄の戦い方を語り残した。これをもとにまとめられたのが軍学書『甲陽軍鑑』とされ、江戸時代に広く読まれた。天正6年(1578年)、海津城で亡くなった。

高坂昌信をめぐる人物

  • 主君:武田信玄/武田勝頼
  • 武田四天王:山県昌景/馬場信春/内藤昌豊
  • 向き合った相手:上杉謙信
  • 書き残したもの:『甲陽軍鑑』のもとになった話

ゆかりの地

  • 松代城跡(海津城跡)(長野市松代町):昌信が城代をつとめた城
  • 明徳寺(長野市松代町):昌信の墓がある寺
  • 石和(山梨県笛吹市):昌信の出身地
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