まえの かげさだ
| 地域 | 近畿(但馬・京) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 豊臣氏(秀次の家臣) |
| 大名家 | 前野氏(但馬出石) |
| 家紋 | 不詳 |
| 主武器 | 不詳 |
| 衣装・甲冑 | 具足・直垂 |
| 武将タイプ | 跡継ぎとして主君に殉じた若き側近 |
前野景定(まえの かげさだ)は、安土桃山時代の武将で、秀吉の古くからの家臣・前野長康(将右衛門)の嫡男である。官途名は出雲守。豊臣秀次の側近として仕えたが、文禄4年(1595年)の秀次事件に連座し、父の長康とともに切腹した。父子の死によって、但馬出石の大名としての前野家は途絶えた。生まれた年はわかっていない。
秀吉古参の家に生まれた跡継ぎ
父の長康は、蜂須賀小六(正勝)と並んで、まだ身分の低かったころの秀吉を支えた古い家臣である。木曽川の川並衆として秀吉に協力し、のちに但馬出石(兵庫県豊岡市)の城主となった。景定は、その前野家を継ぐ嫡男として育った。
景定の妻は、細川忠興の娘だったと伝わる。秀吉の古参の家と、名門・細川家とが結ばれていたことになる。
秀次の側近として
秀吉が甥の秀次を跡継ぎとして関白にすると、父の長康は秀次の後見役となり、景定も秀次の側近として仕えた。姉妹の辰も秀次の側室となり、前野家は親子で秀次と深く結びついた。秀吉の古い家臣の家を秀次につけることで、若い関白を支えさせようとしたのである。
秀次事件と父子の最期
文禄2年(1593年)に秀吉の実子・秀頼が生まれると、秀次の立場は揺らぎはじめた。文禄4年(1595年)、秀次は謀反の疑いをかけられて高野山で切腹させられ、妻子や側室たちも京の三条河原で処刑された。
秀次のもっとも近くに仕えていた景定も、責任をまぬがれなかった。景定は切腹を命じられ、父の長康もともに切腹した。亡くなった日は7月19日とも8月19日ともいわれる。秀吉にもっとも古くから仕えた家の父と子が、秀吉の命によって命を絶ったのである。秀次事件で処分された人びとについては、姉妹サイトの秀吉に処刑・切腹させられた人びと(日本の歴史ガイド)にまとめられている。
同じ古参でも分かれた結末 ― 蜂須賀家と前野家
前野長康と蜂須賀小六は、ともに川並衆として秀吉を支えた盟友だった。しかし二つの家の結末は大きく分かれた。小六は天正14年(1586年)に病死し、家は子の家政、孫の至鎮へと受けつがれて、徳島藩として幕末まで続いた(蜂須賀小六はいつ死んだ?)。一方、前野家は跡継ぎの景定が秀次の側近だったために、父子ともに命を落とし、大名の家としては消えてしまった。
跡継ぎがだれに仕えたかが、家の運命を分けたともいえる。秀次に近かったことが、前野家にとっては取り返しのつかない結果につながったのである。二人の結末のちがいは、姉妹サイトの蜂須賀正勝と前野将右衛門の結末はどこで分かれたのか(日本の歴史ガイド)でもくわしく取り上げられている。
前野景定をめぐる人物
ゆかりの地
- 出石城跡(兵庫県豊岡市):父・長康が城主をつとめた前野家の居城
- 聚楽第跡(京都市上京区):主君・秀次が関白として住んだ邸宅の跡
- 前野村(愛知県江南市):前野家のふるさととされる地


前野長康
豊臣秀次
豊臣秀吉
細川忠興
蜂須賀正勝







































