いとう すけやす
| 地域 | 日向国(宮崎県) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 伊東家臣(一門) |
| 大名家 | 伊東家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 槍 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 猛将・大将 |
伊東祐安は、日向(宮崎県)の戦国大名伊東氏の一門で、伊東義祐に仕えた武将である。伊東加賀守とよばれた。元亀3年(1572)の木崎原の戦いで伊東軍の大将を務めたが、島津義弘に敗れて討死した。
伊東氏の一門として
伊東氏は、伊豆国伊東(静岡県伊東市)を名字の地とする工藤氏の流れで、鎌倉時代に日向の所領を得て、のちに移り住んだとされる。
伊東氏は、日向で大きな勢力を持った戦国大名である。義祐の代には日向の多くを手に入れ、南の島津氏と争った。
祐安は伊東祐武の子とされ、一門の武将として当主の義祐に仕えた。生年はわかっていない。天文18年(1549)ごろから記録に名が見え、島津氏との境での戦いにたびたび出たとされる。
木崎原の戦い
元亀2年(1571)に島津貴久が亡くなると、伊東氏はこの機会に島津領へ攻め込んだ。元亀3年(1572)5月3日の夜、約3000の伊東軍が小林を出発し、二手に分かれて進んだ。
一隊は義弘の居城である飯野城を押さえ、もう一隊は義弘の妻子がいた加久藤城を囲んだ。祐安の率いる隊は、はじめ妙見の尾に控え、のちに鳥越城に本陣を置いた。
しかし加久藤城は、城代の川上忠智らに守られて落ちなかった。この攻撃では、須木城主の米良筑後守が鉄砲で撃たれて戦死している。戦いは木崎原へ移り、朝から昼すぎまで、およそ10時間にわたって続いた。
釣り野伏と祐安の最期
義弘は兵を分けて伏せておき、敵をおびき出して囲む戦法をとった。この戦法は「釣り野伏」とよばれる。白鳥山では、地元の人々に鉦を鳴らさせて島津の大軍がいるように見せ、伊東軍を混乱させたと伝わる。
伊東軍は大将の祐安をはじめ、伊東又次郎・新次郎らが討たれ、戦死者は約500人にのぼったとされる。島津軍の死者も約160人と伝わる。祐安は、子の戦死を知って義弘に一矢報いようと引き返し、矢を受けて討死したという話も残る。
その後の伊東氏
多くの一門や重臣を失った伊東氏は、この戦いをきっかけに衰えた。軍を率いる人材を一度に失ったことが大きかった。天正5年(1577)、義祐は島津氏に押されて日向を追われ、豊後の大友氏を頼った。
のちに義祐の子の祐兵が豊臣秀吉に仕えて飫肥(宮崎県日南市)の領地を得た。伊東氏は飫肥藩主として、江戸時代を通じて家を保った。
ゆかりの地
- 木崎原古戦場跡(宮崎県えびの市):祐安が率いる伊東軍が島津義弘に敗れた戦場
- 加久藤城跡(宮崎県えびの市小田):木崎原の戦いで伊東軍が攻めた島津方の城
参考にした資料
伊東祐安とは
伊東祐安は、日向の伊東家の一門の武将です。
釣り野伏
島津軍は、伏兵を使って敵を誘い込む「釣り野伏」という戦い方で伊東軍を破りました。
祐安の最期
祐安は、この戦いで伊東軍を率いた将の一人として討死したと伝えられます。
評価
祐安は、伊東家の一門として木崎原の戦いで命を落とした武将です。この敗戦が、伊東家の衰えの始まりとなりました。
このイラストについて
このイラストは、山城と陣を背に、兜をかぶった祐安を描いています。
大きな前立ての兜と厳しい表情で、伊東家の一門の武将の気迫を表しました。
夕日に照らされた陣は、木崎原の戦いの場面をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
日向を本拠とした家で、鎌倉時代に工藤祐経の子孫が下向したのが始まりとされる。伊東義祐の代に日向南部の飫肥をめぐって島津氏と争い、「伊東四十八城」と呼ばれる支配網を築いて最盛期を迎えた。
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