ふくしま まさのり
| 地域 | 東海・中国 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 賤ヶ岳七本槍 |
| 大名家 | 賤ヶ岳七本槍 |
| 家紋 | 丸に立ち沢瀉 |
| 主武器 | 大槍 |
| 衣装・甲冑 | 赤塗具足 |
| 武将タイプ | 勇猛・豪快 |
福島正則とは
福島正則は、賤ヶ岳七本槍の筆頭に数えられ、関ヶ原の戦いでは東軍の先鋒として最前線に立った武将である。豊臣秀吉の縁者として世に出ながら、皮肉にもその豊臣家を追い詰める側に回った生涯を送った。豪放磊落、酒を愛し、感情を隠さない。福島正則にはそうした人物像がつきまとう。だが安芸広島四十九万八千石を任された領主としては、治水や検地に地道に取り組む堅実な一面も見せている。その最期は、居城の無断修築という一事を咎められての改易であった。武功だけでは生きられない時代の到来を、正則ほど象徴的に体現した武将はいない。ここではその生涯を順にたどる。
- 永禄4年(1561年)、尾張国海東郡二寺村(愛知県あま市)に生まれる。秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍の筆頭に数えられた
- 文禄4年(1595年)に清洲城主となり、関ヶ原では東軍の先鋒を務めた。戦後、安芸・備後の大名として広島城に入った
- 元和5年(1619年)、広島城を無断で修築したとして改易され、信濃の高井野に移った。寛永元年(1624年)に没した
尾張の出自と秀吉との縁
正則は永禄四年(1561年)、尾張国海東郡の二寺村に生まれたとされる。幼名を市松という。父の福島正信は桶屋を営んでいたとも伝えられ、身分は決して高くない。その正則を世に押し上げたのは血縁であった。母が秀吉の叔母にあたるとされ、この縁により少年期から秀吉に小姓として仕えることになる。加藤清正とはほぼ同年で、幼少からの盟友であった。秀吉は織田家中で急速に地位を高めつつあったが、譜代の家臣を持たない。
ゆえに縁者の少年たちを手元で育て、腹心へと仕立てていった。正則と清正はその代表格である。十代の正則は、秀吉の中国攻めに従って播磨や備中の戦場を経験した。三木城の兵糧攻めや備中高松城の水攻めなど、後年に語られる大規模な戦を若くして目の当たりにしている。この時期に身につけたのは、槍働きの技術だけではない。大軍をどう動かし、城をどう落とすかという実戦の勘所を、秀吉のすぐ傍で学び取っていった。
賤ヶ岳七本槍の筆頭
天正十年(1582年)に本能寺の変が起き、翌年、秀吉と柴田勝家は近江賤ヶ岳で雌雄を決した。正則にとって、これが名を挙げる決定的な機会となる。正則は柴田方の勇将である拝郷家嘉を討ち取るという大功を立てた。この働きにより七本槍のなかでも筆頭として扱われ、恩賞も他の六人を上回る五千石が与えられている。同じ七本槍に名を連ねたのは、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元である。彼らはいずれも後に大名へと取り立てられていった。
七本槍という呼称そのものは、子飼い衆の武勇を天下に喧伝したい秀吉の演出でもあった。しかしその宣伝効果は絶大で、正則の名は一夜にして畿内に知れ渡る。賤ヶ岳の武功は、正則の生涯を通じて誇りであり続けた。晩年に至るまで、彼は自らを「槍で身を立てた男」と規定していたふしがある。その自負は強みであると同時に弱みでもあった。武功が最大の価値であった時代が終わったとき、正則はその変化に順応しきれなかったからである。
九州平定から伊予今治の領主へ
天正十五年(1587年)の九州平定に従軍した正則は、その功により伊予国の今治に十一万三千石を与えられた。二十代半ばにして大名の列に加わったことになる。続く天正十八年(1590年)の小田原征伐にも参陣し、韮山城の攻囲などに加わっている。豊臣政権の統一戦争を、正則は一貫して最前線で戦い抜いた。伊予での統治は短期間であったが、瀬戸内の海運と向き合う経験は後の広島時代に生きた。
港と街道をどう押さえれば国が富むかを、この地で学んでいる。文禄元年(1592年)に始まる朝鮮出兵では、五番隊を率いて渡海した。慶尚道の警備や各地の転戦にあたったが、清正のような突出した戦果には恵まれていない。文禄四年(1595年)、豊臣秀次が謀反の疑いで自刃すると、その旧領であった尾張清洲二十四万石が正則に与えられた。故郷である尾張へ、大名として戻ったのである。
清洲二十四万石の時代
文禄四年から関ヶ原までの五年間、正則は尾張清洲を治めた。東海道の要衝であり、豊臣政権にとって東国への備えとなる重要な位置である。この時期の正則は、城下町の整備と街道の維持に力を注いだ。清洲は物資と人の集まる町として栄え、後の名古屋城下町の母体ともなっていく。清洲は東国へ向かう軍勢の集結地としても機能した。関ヶ原の際に正則が自らの居城を東軍に開放できたのは、この蓄積があったからである。故郷である尾張を任されたことは、正則にとって大きな誇りであったに違いない。だが結果として、この地の利が家康の西上を助けることになった。
秀吉の死と武断派の中心
慶長三年(1598年)に秀吉が没すると、豊臣政権の均衡は急速に崩れていく。朝鮮での戦役で深まった武断派と文治派の対立が、抑え役を失って噴出した。正則は清正とともに武断派の中心にあった。実際に戦場で血を流した者として、後方で差配する石田三成らへの反感は根深い。慶長四年(1599年)、前田利家の死を機に、正則・清正ら七将が三成の屋敷を襲撃する事件が起きる。
三成は徳川家康を頼って難を逃れた。家康はこの対立を的確に利用した。武断派の武将たちを厚遇し、婚姻を通じて自陣営へ引き寄せていく。正則も家康の養女を迎え、その関係を深めていった。正則にとって、それは豊臣家を裏切る行為ではなかった。秀頼を守るために、政権を私するとみえた三成を排除する。彼の理屈はあくまでそこにあった。
小山評定と岐阜城攻略
慶長五年(1600年)、家康が会津の上杉景勝討伐に向かうと、その隙を突いて三成が挙兵する。下野小山に集まった諸将は、去就を迫られた。世に言う小山評定において、真っ先に家康支持を表明したのが正則であったと伝えられる。豊臣恩顧の筆頭格である正則の一言は、居並ぶ諸将の迷いを断ち切った。この場面が伝承どおりであったかは議論があるが、正則の態度が東軍結成の要であったことは動かない。
彼は自らの居城である清洲城を、東軍の集結拠点として提供している。東軍先発隊は西へ進み、西軍方の織田秀信が守る岐阜城に迫った。正則は池田輝政と先陣を争い、激しい攻撃の末にわずか一日で城を攻略している。岐阜城の早期陥落は、関ヶ原の帰趨を大きく左右した。西軍が防衛線を組み直す前に美濃を制したことで、家康は安心して東海道を西上できたのである。
関ヶ原本戦での戦い
九月十五日、両軍は関ヶ原で対峙した。正則は東軍の右翼寄りに布陣し、正面には西軍の主力である宇喜多秀家の大軍が構えていた。井伊直政と松平忠吉の抜け駆けによって先陣の誉れを奪われたとされるが、正則はただちに宇喜多勢へ突撃し、戦いは終始もっとも激烈な局面となった。宇喜多勢一万七千に対し、正則勢は六千余り。数のうえでは劣勢であったが、正則は一歩も引かず、押し戻されては押し返すという消耗戦を半日にわたって続けた。
小早川秀秋の寝返りによって西軍が崩れると、正則は追撃に転じた。東軍勝利の立役者の一人であったことは、誰の目にも明らかであった。戦後、正則は安芸・備後の二か国、四十九万八千石を与えられ、広島城主となる。清洲二十四万石からの倍増であり、外様大名としては破格の待遇であった。
安芸広島の統治
広島は毛利輝元が築いた城下町であり、正則はそれを引き継ぐかたちで領国経営に取り組んだ。まず着手したのは検地と、家臣団の知行割の再編である。太田川のデルタに開けた広島は、水害と常に隣り合わせの土地であった。正則は堤防を整備し、河口部の干拓を進めて新田を開いている。城下の町割りを整え、街道と港を結ぶ流通路を確保したことで、広島は瀬戸内海交易の拠点として発展の基礎を得た。武辺一辺倒の武将という像とは、明らかに異なる事績である。一方で、家臣団の統制には苦労した。急激な加増によって新参の家臣が増え、尾張以来の譜代との間に軋轢が生じたのである。
福島家を支えた家臣たち
福島家の家臣団は、尾張時代からの譜代を核としつつ、加増のたびに新参を吸収して膨れ上がっていった。急速な出世が、そのまま家中の複雑さとなって表れた形である。槍働きで知られた尾関正勝や可児才蔵といった猛者が正則を支えた。とりわけ可児才蔵は「笹の才蔵」の異名で知られ、関ヶ原での首級の多さは語り草となっている。
正則は家臣の武功に対して惜しみなく報いたが、その分だけ知行の割り当ては場当たり的になりがちであった。広島移封後に生じた家中の混乱は、この体質に根がある。それでも家臣たちの正則への忠誠は篤かった。改易のとき、多くの者が浪人の道を選んでも主君を恨まなかったと伝えられ、正則の人柄をうかがわせる。
大坂の陣と孤立
慶長十九年(1614年)、大坂冬の陣が起こると、正則は豊臣方への内通を疑われ、江戸に留め置かれた。戦場に立つことを許されなかったのである。大坂城内の蔵米が豊臣方に用いられた件でも嫌疑を受けたが、正則は動かなかった。彼にできたのは、豊臣家が滅びていくのを遠くから見ていることだけであった。翌年の夏の陣で豊臣家は滅亡する。秀吉の縁者として世に出た正則にとって、この結末は自らの選択の帰結でもあった。清正はすでに世になく、豊臣恩顧の大名は次々と力を失っていた。正則は西国に巨大な領国を抱えたまま、政治的にはほとんど孤立していた。
広島城無断修築と改易
元和五年(1619年)、正則は突然の改易を申し渡される。理由は、洪水で損壊した広島城を幕府の許可なく修築したことであった。前年に発布された武家諸法度は、城の無断修築を明確に禁じていた。正則は事前に届け出たと主張し、実際に幕府側との折衝も行っていたが、手続きは不完全であった。幕府は修築部分の破却を命じ、正則はこれに応じたものの、その履行が不十分であるとされた。
結果、四十九万八千石は召し上げられる。外様の巨大大名を削ぐという幕府の意図があったことは疑いない。しかし正則の側にも、法度という新しい秩序を軽んじる油断があった。武功の時代の作法が、もはや通用しなかったのである。正則に代わって広島に入ったのは浅野長晟である。以後、広島は幕末まで浅野家の領国となった。
信濃高井野での晩年
改易後の正則には、信濃国川中島の高井野などに四万五千石が与えられた。西国の太守から、山あいの小大名への転落である。高井野において、正則は用水路の開削や新田開発に取り組んだと伝えられる。境遇は激変したが、領地を治めるという姿勢そのものは変わらなかった。寛永元年(1624年)七月、正則は高井野で没した。享年六十四。豊臣恩顧の武将として、時代の変わり目を最後まで生き抜いた生涯であった。ところが死後、幕府の検使が到着する前に遺体が火葬されてしまう。この不手際を咎められ、福島家はさらに減封され、大名としての家は事実上絶えた。
人物像と酒にまつわる逸話
正則は無類の酒好きとして知られた。感情の起伏が激しく、酒が入れば座を沸かせもし、諍いも起こした。その率直さは愛されもし、敵も作った。もっとも名高いのが、黒田家の家臣である母里友信との呑み較べである。正則は自慢の大盃を差し出し、飲み干せば望みの品を取らせると言い放った。友信は見事に飲み干し、褒美として天下三名槍の一つ「日本号」を所望した。正則は約束を守ってこれを譲り渡している。
この逸話は民謡「黒田節」として今日まで歌い継がれている。後悔した正則が返還を求めたものの、友信は応じなかったとも伝えられる。豪快さと詰めの甘さが同居する、いかにも正則らしい話といえる。一方で、家臣や領民への情の厚さを示す話も少なくない。改易の際には、多くの家臣が浪人となることを憂い、再仕官の口利きに奔走したという。
武功の時代の終わりを生きて
正則の人生を貫くのは、武功こそが評価の尺度であるという確信であった。賤ヶ岳で槍を振るい、岐阜城を一日で落とし、関ヶ原で宇喜多勢と正面から渡り合った。すべては同じ価値観の上にある。しかし江戸幕府が求めたのは、法度を守り、届け出を怠らず、格式に従う大名であった。戦場で通じた即断即決は、平時においてはむしろ危うさとみなされる。同じ豊臣恩顧でも、藤堂高虎のように新しい秩序へ器用に適応した者は生き残った。
正則にはその器用さがなく、また持とうともしなかった。改易の報せを受けたとき、正則は抵抗せず素直に城を明け渡している。この従順さは、彼が幕府の力を正確に理解していたことを示す。抗っても勝てないことは分かっていた。だからこそ正則の生涯は物悲しい。時代の要請を理解しながら、自分を作り変えることはできなかった男の記録として読めるからである。
正則ゆかりの地をたどる
広島城は、正則が十九年にわたって拠点とした城である。天守は明治まで現存したが原爆によって失われ、現在の天守は戦後の再建である。正則が修築を咎められた石垣の一部は今も残る。岐阜城は、正則が池田輝政と先陣を争って攻め落とした城として知られる。金華山の頂に立つ天守からは、関ヶ原へと続く濃尾平野を一望できる。
清洲城は現在、模擬天守と公園として整備されている。清洲会議の舞台であり、正則が二十四万石の主として過ごした場所でもある。晩年を送った信濃高井野には、正則の墓と、開削に関わったとされる用水の跡が残る。西国の太守が最後にたどり着いた静かな土地である。
後世の評価
江戸期の講談や芝居において、正則は快男児として描かれた。清正が神格化されたのに対し、正則は人間味あふれる豪傑として親しまれている。近代以降の評価は分かれる。豊臣家を裏切った武将とする厳しい見方がある一方、彼なりに筋を通した人物として再評価する立場もある。確かなのは、正則が武功によって身を起こし、武功では守りきれない秩序のなかで領国を失ったという事実である。
彼の生涯は、戦国から江戸への転換そのものを写している。広島の治水事業や高井野の新田は、その後も土地に残った。戦場の勇名とは別のかたちで、正則の仕事は暮らしのなかに受け継がれている。戦国の世に槍一本で身を起こし、天下分け目の合戦で最も激しい戦場に立ち、そして手続きの不備で領国を失う。福島正則の生涯は、乱世が終わるとはどういうことかを、一人の武将の身の上で示している。
正則を象徴する道具は二つある。ひとつは戦場で振るった大槍、もうひとつは黒田節に歌われた大盃である。武と酒、この二つが彼のすべてを物語る。大槍は武功への執着を、大盃は約束を違えない気質を表している。日本号を惜しみながらも渡したという逸話は、正則が損得より面目を重んじる人物であったことを伝えている。
当図鑑内の関連武将
正則の生涯は多くの武将と交わる。主君であった豊臣秀吉、幼少からの盟友であり同じ七本槍の加藤清正と加藤嘉明、宿敵となった石田三成。関ヶ原で正面から激突した宇喜多秀家、東軍として轡を並べた黒田長政や藤堂高虎、そして最終的に運命を握った徳川家康。あわせてご覧いただきたい。
福島正則をめぐる人物
ゆかりの地
- 清洲城(愛知県清須市):正則が城主を務めた城
- 広島城(広島市中区):関ヶ原のあと正則が入った城
- 福島正則屋敷跡・荼毘所跡(長野県高山村):改易後の晩年を過ごした地。長野県の史跡
- 岩松院(長野県小布施町):正則の霊廟がある寺
この人物をもっと知る本
- 【歴史小説】今村翔吾『八本目の槍』(新潮文庫):賤ヶ岳七本槍の面々を描く連作。正則(市松)も主要人物の一人





















