えがみ いえたね
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 龍造寺氏 |
| 大名家 | 龍造寺氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・大槍 |
| 衣装・甲冑 | 黒塗具足 |
| 武将タイプ | 勇猛・頼れる |
江上家種は龍造寺隆信の次男。肥前神埼郡の国人・江上武種の養子となり、勢福寺城を本拠とした。沖田畷の戦いに加わり、のちに蓮池城へ移った。文禄の役で朝鮮に渡り、1593年に陣中で病没したとされる。墓は神埼市の種福寺にある。
龍造寺隆信の次男、江上氏を継ぐ
江上家種は龍造寺隆信の次男である。生年は分かっていない。
江上氏は肥前国神埼郡を本拠とした国人(在地の武士)で、少弐氏に仕えた家である。勢福寺城は、少弐氏が拠点としたのち江上氏の居城となった。龍造寺隆信が肥前東部に勢力を広げると、江上武種は龍造寺氏に従った。家種はその武種の養子となり、江上氏を継いだ。隆信が有力な国人の家に子を入れ、支配を固めた一例である。
勢福寺城と沖田畷の戦い
勢福寺城は、神埼市の城山(標高約196メートル)の山頂に築かれた山城である。南北朝時代の1353年に一色直氏が築いたとされ、江上氏の時代には龍造寺氏による改修も受けた。
天正12年(1584年)、家種は沖田畷の戦いに加わった。島原半島で龍造寺軍が有馬・島津の連合軍と戦った合戦で、実父の隆信が戦死した。
蓮池への移城と朝鮮での死
天正17年(1589年)、江上氏は勢福寺城から蓮池城へ移り、勢福寺城は廃城となった。
文禄元年(1592年)に始まる豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)では、家種も海を渡った。文禄2年(1593年)2月に陣中で没した。釜山で病没したという記録がある。
種福寺と墓
勢福寺城のある城山の南麓には、曹洞宗の西谷山種福寺がある。家種の開基と伝わる寺で、家種の五輪塔が残る。城原衆(江上氏の家臣団)やその子孫の墓もある。
ゆかりの地
- 勢福寺城跡(神埼市):江上氏の居城。家種が本拠とした山城
- 種福寺(神埼市):家種が開基と伝わる曹洞宗の寺。家種の五輪塔が残る
参考にした資料
龍造寺隆信の次男
家種は、肥前の龍造寺隆信の次男です。
江上家の養子
家種は、肥前の神埼郡の国衆である江上武種の養子となり、江上家を継ぎました。
勢福寺城
江上家の本拠は、勢福寺城でした。現在の佐賀県神埼市にあった山城です。
龍造寺家の勢力拡大
父の隆信は、子どもたちを肥前の国衆の家に養子として送り込み、勢力を固めました。家種の養子入りも、その一つでした。
五州二島の太守
隆信は、肥前から北九州へと勢力を広げ、「五州二島の太守」と呼ばれるほどになりました。
沖田畷の戦い
1584年、隆信は島原で島津・有馬の連合軍と戦い、討死しました。家種も、この沖田畷の戦いに加わったとされます。
父の死
父を失った龍造寺家では、兄の龍造寺政家が家を継ぎましたが、実権は重臣の鍋島直茂に移っていきました。
蓮池城へ
家種は、のちに蓮池城に移ったとされます。
豊臣政権のもとで
豊臣秀吉の九州平定の後、龍造寺家は秀吉に従い、家種もその一員として仕えました。
朝鮮出兵
家種は、秀吉の朝鮮出兵に加わり、朝鮮に渡りました。
陣中での病死
家種は、1593年、朝鮮の陣中で病にかかって亡くなったとされます。
家種の墓
家種の墓は、神埼に残されていると伝えられます。
龍造寺家のその後
家種の死後、龍造寺家の実権は鍋島家に移り、のちに鍋島家が佐賀藩を治めることになりました。
隆信の子どもたち
隆信の子どもたちは、それぞれ国衆の家を継ぎ、龍造寺家の勢力を支えました。家種もその一人でした。
家種の評価
家種は、龍造寺隆信の次男として江上家を継ぎ、沖田畷の戦いや朝鮮出兵に加わった武将です。その生涯は、龍造寺家の最盛期から衰退までの時代と重なっています。
このイラストについて
甲冑姿の武将が槍を手にし、霧の立ちこめる山並みと山城、旗を背にした姿です。
背景の山城は、家種が継いだ江上家の本拠・勢福寺城をイメージしています。霧の立ちこめる山並みは、肥前の神埼の山あいの風景を思わせるものです。顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
肥前の国人で、もとは少弐氏の家臣だった。龍造寺隆信が家督を継ぐと少弐氏を滅ぼし、1570年の今山の戦いで大友軍の大軍を夜襲で破って肥前の統一へ進んだ。その後、筑前・筑後・肥後などにも勢力を広げ、「五州二島の太守」と称された。
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