こうかい
| 地域 | 関東 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 天台宗の僧(天海の法嗣) |
| 大名家 | 天海配下 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 錫杖・秘法書 |
| 衣装・甲冑 | 格調高き僧衣 |
| 武将タイプ | 聡明・厳格 |
公海は江戸時代前期の天台宗の僧。父は公家の花山院忠長。元和6年に天海の弟子となり、天海の没後にその跡を継いで東叡山寛永寺に住し、日光山・比叡山を管轄した。天海が着手した山科毘沙門堂の復興も完成させた。
公家の子から天海の弟子へ
公海は慶長12年(1607)12月に生まれた。西暦では1608年の初めにあたる。父は公家の花山院忠長、母は本願寺教如の娘とされる。
元和6年(1620)、天台宗の僧・天海の弟子となった。天海は徳川家康・秀忠・家光の信任を受けた僧である。家康を祀る日光東照宮の成立や、江戸上野の東叡山寛永寺の創建を主導した。
天海の跡を継ぐ
寛永20年(1643)に天海が没すると、公海はその法を継いで寛永寺に住した。正保4年(1647)に僧正、翌年に大僧正となった。
公海は寛永寺に加え、東照宮のある日光山と比叡山を管轄し、天台宗一宗を統轄する立場に立った。のちにこの三山の地位は、後水尾天皇の皇子・守澄法親王に譲られた。以後、この地位は皇族が就く輪王寺宮に受け継がれていく。
寛永寺は、京都の比叡山延暦寺にならって江戸の東北に置かれた寺である。山号の東叡山は「東の比叡山」を意味する。徳川将軍家の菩提寺の一つとなり、のちに歴代将軍の墓所も置かれた。
毘沙門堂の復興
京都山科の毘沙門堂は、天海が再興に着手した寺である。公海はその事業を引き継ぎ、寛文5年(1665)に本殿の落慶を迎えた。
毘沙門堂はのちに後西天皇の皇子・公弁法親王が入寺し、門跡寺院となった。公海は元禄8年(1695)10月に没した。
ゆかりの地
- 毘沙門堂門跡(京都市山科区):天海が再興に着手し、公海が本殿を完成させた寺。
- 寛永寺(東京都台東区):天海の没後、公海が継いだ寺。
参考にした資料
天海
天海は、徳川家康・秀忠・家光の三代に仕えた天台宗の僧です。江戸の寛永寺を開き、家康を東照大権現として日光にまつることにも深く関わりました。
寛永寺
寛永寺は、江戸の上野に天海が開いた寺です。江戸城の北東を守る寺として、徳川家の厚い保護を受けました。
日光の東照宮
家康をまつる日光東照宮は、家光の時代に大きく建て替えられ、今の華やかな姿になりました。天海とその弟子たちは、日光の祭りや寺の運営にも関わりました。
毘沙門堂
毘沙門堂は、京都の山科にある天台宗の寺です。公海は、この寺を今の地に移して復興しました。
輪王寺宮
公海の後、寛永寺と日光の寺々は、皇族を迎えて「輪王寺宮」として治められるようになりました。
評価
公海は、天海の跡を継いで寛永寺や日光の寺々を守り、毘沙門堂を復興した僧です。江戸時代の初めの天台宗と徳川家の結びつきを伝える人物といえます。
このイラストについて
このイラストは、建てられている途中の寺を背に、錫杖を手にした公海を描いています。
剃髪した頭と黒い法衣、静かな目つきで、師の跡を継いで寺を守った僧の落ち着きを表しました。
組まれた足場と山あいの寺は、公海が復興に力を尽くした毘沙門堂などの寺をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
























