いぬづか しげいえ
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 肥前国人(少弐氏→龍造寺氏) |
| 大名家 | 龍造寺 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 大槍 |
| 衣装・甲冑 | 塗具足 |
| 武将タイプ | 勇猛・武骨 |
犬塚鎮家は肥前国神埼郡の国人犬塚氏の一族で、小松城を居城としたとされる。はじめ少弐氏に従い、のち龍造寺氏に属した。天正4年(1576)の藤津郡横沢城攻めで先陣を務め、天正9年(1581)には龍造寺政家の肥後出兵に従ったと伝わる。
筑後から肥前へ移った犬塚氏
犬塚氏はもと筑後国三潴郡犬塚郷(福岡県大木町)を本拠とした一族である。明応年間(1492〜1501)、犬塚家貞が肥前国神埼郡蒲田郷に崎村城を築き、少弐氏の部将となった。その後、一族は東西の家に分かれた。
鎮家は家清の子とされ、神埼郡の小松城を居城としたという。生没年は伝わらない。
少弐氏のもとで
享禄3年(1530)、大内氏の軍勢が肥前に攻め込み、少弐資元の軍と田手畷(佐賀県吉野ヶ里町付近)で戦った。鎮家は父家清とともに少弐方として戦ったとされる。
永禄12年(1569)、大友義鎮(宗麟)が龍造寺隆信を攻めると、犬塚一族は二つに割れた。崎村城の犬塚鎮直は龍造寺方、蒲田江城の犬塚尚重は大友方につき、両者とも戦死した。鎮家はこの抗争で西犬塚を支持したとされる。
龍造寺氏の部将として
戦後、隆信は鎮直の遺児家広に所領を与え、元亀3年(1572)に三根郡へ移した。こうして犬塚氏は龍造寺氏の家臣となった。
天正4年(1576)、隆信が藤津郡の横沢城を攻めた際、鎮家は先陣を務めた。天正9年(1581)には、隆信の子政家による肥後侵攻にも従ったという。
神埼郡
神埼郡は、佐賀平野の東部にあたる地域です。少弐家や龍造寺家の勢力が交わる場所で、国衆たちの争いの舞台となりました。
少弐家の衰え
少弐家は、鎌倉時代から北九州で力をもった名門でしたが、戦国時代には大内家に押され、さらに龍造寺家の台頭で力を失いました。
龍造寺家に従う
少弐家が力を失うと、肥前の国衆の多くは龍造寺隆信に従いました。犬塚氏も、その流れの中で龍造寺家の部将となりました。
横沢城攻め
天正4年(1576年)、龍造寺家は肥前の藤津郡に兵を進めました。鎮家は、その中の横沢城攻めで先陣を務めたと伝えられます。
肥後への出兵
天正9年(1581年)、龍造寺政家は肥後へ出兵しました。龍造寺家は、北九州から肥後にまで勢力を広げていきました。
先陣の役目
先陣は、合戦で最初に敵とぶつかる役目です。危険の大きい役目でしたが、手柄を立てる機会も多く、勇猛な武士が選ばれました。
犬塚氏の城
犬塚氏の崎村城や小松城は、佐賀平野の中の小さな城でした。周りには堀やクリークがめぐり、水を守りに生かしていたと考えられます。
クリークの土地
佐賀平野には、クリークと呼ばれる水路が網の目のように通っています。こうした水路は、田んぼの水やりと同時に、城や館の守りにも使われました。
評価
鎮家は、少弐家から龍造寺家へと主を変えながら、先陣を務める勇猛な部将として戦った肥前の国衆です。
このイラストについて
このイラストは、平野の中の城と陣の旗を背に、槍を手に立つ鎮家を描いています。
赤い羽織と、まっすぐ前を見る顔つきで、先陣を務めたと伝わる勇猛な部将の姿を表しました。
広い平野と水辺は、犬塚氏が根を張った肥前の佐賀平野をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
肥前の国人で、もとは少弐氏の家臣だった。龍造寺隆信が家督を継ぐと少弐氏を滅ぼし、1570年の今山の戦いで大友軍の大軍を夜襲で破って肥前の統一へ進んだ。その後、筑前・筑後・肥後などにも勢力を広げ、「五州二島の太守」と称された。
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