よしえ むねのぶ
| 地域 | 甲信越 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 上杉家 |
| 大名家 | 吉江家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 重厚具足 |
| 武将タイプ | 勇猛・老将 |
吉江宗信(1505〜1582)は越後の国人で上杉家の家臣。謙信・景勝に仕え、越中方面で織田方と戦った。天正10年、柴田勝家らの大軍に囲まれた魚津城に一族とともに籠城し、落城時に自害した。77歳であった。
目次
越後吉江の国人
吉江宗信は永正2年(1505)の生まれとされる。越後国西蒲原郡の吉江を本拠とする国人で、上杉謙信に仕えた。越中や下野など、各地の戦いに従軍した。
謙信の死後に起きた家督争い・御館の乱では、上杉景勝の側についた。その後は越中で織田方の柴田勝家と対峙した。増山城の守備にあたった時には、木舟城を攻め落としたとされる。
景資との関係
宗信は吉江景資の父とされる。景資の子には寺島長資と中条景泰がいる。
一方、花押(署名の印)の形から、宗信と景資を同一人物とみる研究者の説もある。この説では、宗信は中条景泰の父にあたる。どちらが正しいかは決着していない。
魚津城の籠城
天正10年(1582)、柴田勝家らの織田軍が越中の魚津城を囲んだ。宗信は一族や諸将とともに城に籠もった。援軍は届かず、兵糧も尽きた。
上杉景勝は救援のため越中の天神山まで出陣した。しかし信濃や上野から織田軍が越後に迫ったため、引き返さざるをえなかったとされる。
6月3日、城は落ち、宗信は一族とともに自害した。城将たちは討死ではなく自害したとされる。ともに死んだのは中条景泰、寺島長資、山本寺孝長、竹俣慶綱らである。この前日、京都では本能寺の変が起きていた。織田軍は変を知って撤退し、魚津城は上杉方が取り戻した。
ゆかりの地
- 魚津城跡(富山県魚津市):宗信らが籠城し自害した城













































