増田長盛 | 検地と兵站を担った豊臣五奉行、大和郡山20万石

増田長盛

ました ながもり

地域近畿
所属勢力・属性豊臣家臣
大名家豊臣
家紋―
主武器太刀・行政書状
衣装・甲冑奉行具足
武将タイプ実務派・苦労人

増田長盛は豊臣秀吉に仕えた奉行で、五奉行の一人である。検地や兵站、財政などの実務を担い、文禄4年(1595年)に大和郡山20万石を与えられた。関ヶ原の戦いで西軍に属して所領を失い、大坂夏の陣の後に自害した。

目次

秀吉の奉行としての出世

増田長盛は天文14年(1545年)の生まれである。通称は仁右衛門。出身は尾張国中島郡増田村(現在の愛知県稲沢市)とする説が有力だが、近江とする説もある。

秀吉に仕え、小牧・長久手の戦いの功で2万石を加増された。その後は小田原攻めや朝鮮出兵にも従った。ただし長盛の本領は戦場よりも行政にあった。

長盛は秀吉が長浜城主だった頃から仕えたとされ、石田三成らと並ぶ実務派の家臣として取り立てられた。官位は従五位下右衛門尉である。

検地・兵站・財政の実務

長盛は近江や安房などで検地(田畑の面積と収穫高を調べて年貢の基準を決める作業)を担当した。天正18年(1590年)には京都の三条大橋の架橋も奉行している。

文禄の役(朝鮮出兵)では、兵糧や武器の輸送など補給を担った。こうした功により、文禄4年(1595年)に大和郡山城主となり20万石を領した。秀吉の晩年には五奉行の一人として政務を分担した。長束正家も同じ五奉行で、財政面を担った人物である。

五奉行とは、秀吉の晩年に政務を分担した浅野長政・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家の5人を指す。徳川家康ら五大老が大名としての重みで政権を支えたのに対し、五奉行は日々の行政を動かす役目であった。長盛は知行や兵糧の管理など財政面にも深く関わった。

関ヶ原と最期

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、長盛は西軍に属した。ただし戦場には出ず、大坂城の留守を守った。その一方で徳川家康に情報を伝えていたともされる。

戦後は所領を没収され、高野山に入った後、武蔵国岩槻に預けられた。元和元年(1615年)の大坂夏の陣では、子の盛次が大坂方として入城した。長盛はこの責めを問われ、同年5月27日に自害したとされる。

郡山城は長盛の前に豊臣秀長が居城とした大和の要地である。長盛はここで城と城下の整備を進めたとされるが、関ヶ原の戦いの後、城は徳川方に接収された。

ゆかりの地

  • 郡山城跡(奈良県大和郡山市):長盛が文禄4年から関ヶ原の戦いまで居城とした城

参考にした資料

豊臣家

主家

家臣団

一柳直末中村一氏の肖像イラスト前田玄以片桐且元竹中半兵衛野々村幸政長束正家黒田官兵衛
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