ふくはら さだとし
| 地域 | 中国 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 毛利家臣 |
| 大名家 | 毛利 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・行政書状 |
| 衣装・甲冑 | 重臣具足 |
| 武将タイプ | 毛利四宿老・長老 |
毛利氏の庶流・福原氏の当主で、毛利元就の母方の一族。天文19年(1550年)以降は毛利家の筆頭重臣とされる。元就の没後は吉川元春・小早川隆景・口羽通良とともに「四人衆」として毛利輝元を補佐し、文禄2年(1593年)に没した。
毛利一門の福原氏
福原貞俊は、安芸の国人・毛利氏の重臣である。福原氏は毛利氏の庶流(分家)で、安芸国高田郡の鈴尾城を本拠とした。一族の娘が毛利弘元に嫁いで毛利元就らを産んでおり、毛利宗家と深い姻戚関係にあった。
父は福原広俊。貞俊の生年は永正16年(1519年)とする説がある。大永3年(1523年)、毛利家の幼い当主・幸松丸が早世した。このとき宿老たちは連署して元就を当主に迎えた。父の広俊はその宿老の一人であった。
元就の筆頭重臣
貞俊は早くから元就に仕え、各地を転戦した。天文19年(1550年)、元就は専横の目立った重臣・井上元兼の一族を粛清した。その直後、家臣団は元就への服従を誓う起請文(誓約書)を差し出した。貞俊はこの連署の筆頭に名を置き、以後、毛利家の筆頭重臣と位置づけられた。
弘治元年(1555年)、元就は厳島の戦いで陶晴賢を破った。その後、毛利氏は大内氏の領国である周防・長門へ攻め入った(防長経略)。貞俊は長門の勝山城の包囲に加わった。
永禄10年(1567年)からは、毛利氏と結ぶ伊予の河野氏を助けるための伊予出兵に加わった。永禄12年(1569年)には、大友宗麟の支援を受けた大内輝弘が周防の山口に攻め入った(大内輝弘の乱)。貞俊はこの鎮圧にも関わった。
輝元を支えた四人衆
元亀2年(1571年)に元就が没すると、孫の輝元が当主となった。若い輝元を補佐したのが、吉川元春・小早川隆景・福原貞俊・口羽通良の4人である。この4人は「四人衆」「御四人」と呼ばれた。貞俊は主に山陽・瀬戸内方面の政治と軍事を受け持ったとされる。
天正12年(1584年)、高齢を理由に隠居した。文禄2年(1593年)8月10日に没した。福原家はその後も毛利家の重臣として続き、江戸時代には長州藩の永代家老の家となった。
ゆかりの地
- 鈴尾城跡(広島県安芸高田市):福原氏の居城。毛利元就の生誕地と伝わる。
































































