宇喜多秀家 | 弱冠20代で五大老に列した関ヶ原西軍主力の悲劇の大名

宇喜多秀家

うきた ひでいえ

地域中国
所属勢力・属性宇喜多氏
大名家宇喜多氏
家紋剣片喰
主武器太刀・采配
衣装・甲冑黒漆具足
武将タイプ「五大老」・悲劇
目次

宇喜多秀家とは

宇喜多秀家は、備前・美作・備中の一部を領した五十七万石余の大名であり、豊臣政権の五大老に名を連ねた人物である。任じられたとき、まだ二十代であった。秀吉に実の子のように可愛がられ、前田利家の娘である豪姫を妻に迎えた。豊臣政権のなかで、これほど恵まれた立場にあった若い大名は他にいない。

しかし関ヶ原で西軍の主力として戦い、敗れて八丈島へ流された。そこで五十年を生き、八十四歳で没している。関ヶ原の当事者のなかで、最も長く生きた人物であった。栄光と流謫の落差において、秀家ほど劇的な生涯を送った戦国大名はいない。ここではその一部始終をたどっていく。

梟雄の子として

秀家は元亀三年(1572年)、備前の戦国大名である宇喜多直家の子として生まれた。幼名を八郎という。父の直家は、謀略によって主家を乗っ取り、備前一国を切り取った人物である。暗殺と裏切りを重ねたその手法から、戦国屈指の梟雄と呼ばれる。直家は毛利氏に従っていたが、織田信長の中国方面軍が迫ると羽柴秀吉へ寝返った。この決断が、幼い秀家の運命を決めることになる。

天正九年(1581年)、直家が病没する。秀家はわずか十歳で家督を継いだ。備前の統治は、後見役と秀吉の庇護に委ねられることとなった。秀吉は秀家を猶子として遇し、自らの名から一字を与えて秀家と名乗らせた。子に恵まれなかった秀吉にとって、素直な性質のこの少年は特別な存在であった。

豊臣政権の若き重鎮

元服後の秀家は、秀吉の主要な軍事行動にことごとく従軍している。天正十三年(1585年)の四国攻め、天正十五年の九州平定、天正十八年の小田原征伐。いずれの戦役でも一手の大将を任され、着実に実績を積んだ。秀吉子飼いの武将たちが競い合うなかで、秀家は生まれながらの大身として別格の扱いを受けている。天正十六年頃、秀家は前田利家の四女である豪姫を正室に迎えた。豪姫は秀吉と北政所の養女として育てられており、この婚姻は秀家を豊臣一門に組み込むものであった。

秀家と豪姫の仲は睦まじかったと伝えられる。戦国大名の夫婦としては珍しく、生涯にわたって深い情愛で結ばれていた。居城の岡山城も、この時期に大改修が施された。旭川を天然の堀とし、黒漆塗りの下見板で覆われた天守は「烏城」と呼ばれる。城下町の骨格も秀家の代に整えられた。

朝鮮出兵と総大将

文禄元年(1592年)、秀吉が朝鮮へ出兵すると、秀家は渡海軍の監軍、事実上の総大将として海を渡った。二十一歳の若さである。実戦の指揮は小西行長や加藤清正といった歴戦の将が執ったが、諸将をまとめる名目上の頂点に秀家を置いたのは、彼が豊臣一門であるからにほかならない。漢城の占領後、日本軍は各地に分散し、やがて明軍の反攻と義兵の蜂起に苦しむようになる。

碧蹄館の戦いでは秀家も戦場に立った。若い総大将は、老練な武将たちの対立を調整しきれなかった。清正と行長の不和、三成ら奉行衆との軋轢は、秀家の手に余る問題であった。慶長の役でも秀家は渡海している。二度の戦役を通じて、彼は豊臣政権の矛盾を最も近い位置で見続けることになった。

五大老と宇喜多騒動

慶長三年(1598年)、秀吉は死の間際に五大老・五奉行の体制を定めた。五大老は徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、そして宇喜多秀家である。他の四人はいずれも老練な大大名であり、秀家だけが二十七歳の若者であった。彼が選ばれたのは実力よりも、豊臣一門としての立場ゆえである。秀吉の死後、秀家は豊臣家への忠誠を貫いた。家康の専横に対しては明確に反対の立場を取り、石田三成に近い姿勢を示している。

ところがこの時期、宇喜多家の内部で深刻な内紛が発生した。世に言う宇喜多騒動である。原因は、秀家が重用した側近と、父直家以来の譜代家臣との対立であった。検地の方針や知行の再編をめぐって、両者の溝は決定的となる。結果、戸川達安や花房正成といった有力な重臣が家を去った。彼らは家康の仲裁を受け入れ、宇喜多家から離脱する。この騒動によって、宇喜多家は多数の実戦経験豊かな家臣を失った。

五十七万石の兵力は残っても、それを動かす骨格が抜け落ちたのである。関ヶ原の一年前に起きたこの内紛は、秀家にとって致命的であった。そして仲裁に入った家康が、宇喜多家の弱体化を歓迎していたことは想像に難くない。

関ヶ原の戦い

慶長五年(1600年)、三成が挙兵すると、秀家は迷わず西軍に加わった。五大老として豊臣家を守る立場にある以上、他の選択はありえなかった。秀家は西軍の副大将格として、伏見城攻めや伊勢方面の作戦に加わり、その後、美濃へ入る。関ヶ原に布陣した西軍のなかで、彼の一万七千は最大の兵力であった。九月十五日、決戦の火蓋が切られる。秀家隊の正面に現れたのは、東軍の福島正則六千であった。

戦いは終始激烈をきわめた。兵力では秀家が勝るが、正則の粘りは凄まじく、両軍は押しては押し返す消耗戦を数時間にわたって続けた。この局面で秀家隊を実質的に率いたのが、キリシタン武将として知られる明石全登である。全登の指揮は的確で、東軍の戦線を幾度も後退させた。しかし正午過ぎ、松尾山の小早川秀秋が東軍へ寝返る。秀秋の大軍は大谷吉継隊を壊滅させ、その勢いのまま秀家隊の側面へ襲いかかった。

秀家は激怒し、秀秋を斬ると叫んで馬を進めようとしたが、家臣に押しとどめられたと伝えられる。この時点で、勝敗はすでに決していた。宇喜多勢は崩壊し、秀家は伊吹山中へ落ち延びた。西軍最強の部隊は、味方の裏切りによって瓦解したのである。

薩摩への逃亡

敗走した秀家は、伊吹山中に潜伏した後、旧臣の手引きで畿内を抜け、海路で薩摩へ渡った。島津義弘を頼ったのである。島津氏は秀家を牛根の山中に匿った。関ヶ原で西軍に属した島津家自身が微妙な立場にあるなかで、追われる身の大名を庇い続けたのは大きな危険を伴う行為であった。秀家はおよそ三年にわたり薩摩に潜んだ。しかしいつまでも隠し通せるものではなく、慶長八年(1603年)、島津氏は幕府へ秀家の身柄を届け出る。

このとき島津忠恒と前田利長が助命を嘆願した。豪姫の実家である前田家は、必死に家康へ働きかけている。家康はこれを容れ、秀家の死罪を免じた。西軍の主力を率いた五大老が生き延びたのは、極めて異例のことである。

八丈島での五十年

慶長十一年(1606年)、秀家は二人の息子とともに八丈島へ流された。三十五歳。以後、生涯を島で過ごすことになる。八丈島は当時、罪人が送られる絶海の孤島であった。かつて五十七万石を領した大名が、わずかな供とともに畑を耕して暮らす日々が始まる。生活は苦しかったが、豪姫の実家である前田家が援助を続けた。米や衣類、金銭が定期的に島へ送られ、宇喜多家の血筋は絶えることなく保たれた。

この支援は幕府公認のもとで行われ、実に明治期に至るまで二百数十年にわたって継続されたと伝えられる。豪姫の情が、遠く後世まで届いたことになる。豪姫自身は加賀へ戻され、秀家と再会することはなかった。夫の助命に尽くし、島への仕送りを実家に頼み続けた生涯であった。明暦元年(1655年)、秀家は八丈島で没した。

享年八十四。関ヶ原に参加した大名のなかで最も長生きし、江戸幕府が四代将軍を迎える時代までを見届けた。島では悠然と過ごしたという逸話も残る。あるとき島役人から酒を振る舞われ、かつての大名らしい風格で応じたという話が語り継がれている。

宇喜多家のその後

秀家の子孫は八丈島に定住し、宇喜多姓を名乗り続けた。流人の身分でありながら、島では特別な家系として遇されていたという。明治二年(1869年)、赦免によって宇喜多氏の子孫はようやく本土へ戻ることを許された。関ヶ原から実に二百六十九年後のことである。一部の子孫はそのまま八丈島に残り、今日まで続いている。戦国大名の家系が、流刑地で四百年生き続けたという例は他にない。岡山を追われた宇喜多家は、大名としては一代で終わった。しかし血脈という点では、多くの戦国大名家より確かに残ったのである。

人物像と評価

秀家は温厚で誠実な人物であったと伝えられる。父直家の梟雄ぶりとは正反対で、家臣や妻に対して情の深い性格であった。その温厚さは、乱世の当主としては弱点にもなった。宇喜多騒動で家臣団の対立を抑えきれなかったのは、非情になりきれなかったからでもある。一方で、恵まれた出自に安住しなかった点は評価されるべきである。

朝鮮では総大将を務め、関ヶ原では最後まで戦い抜いた。逃げる立場にありながら逃げなかった。豊臣家への忠義を貫いた結果として全てを失ったが、その姿勢に一貫性がある。裏切りが常態であった時代に、秀家は最後まで筋を通した数少ない大名であった。

岡山という都市を残して

秀家が失ったのは領地であったが、残したものもある。岡山城と、その城下町である。父直家が石山城を居城としたのを受け、秀家は旭川の流れを付け替えて新たな縄張りを行い、慶長二年(1597年)に岡山城を完成させた。黒漆塗りの下見板に覆われた天守は「烏城」と呼ばれ、白亜の姫路城と対比される。不等辺五角形という珍しい天守台の形も、秀家時代の遺構である。城下には商人町と職人町が計画的に配置され、山陽道が城下を通るよう付け替えられた。

現在の岡山市街の骨格は、このとき定まっている。秀家が去った後、岡山は小早川秀秋、次いで池田氏の城下となった。皮肉にも、秀家を裏切った秀秋がその城を受け継いだのである。岡山城の天守は戦災で焼失し、現在のものは再建である。しかし石垣の一部には秀家時代の野面積みが残り、若き大名が引いた線を今も確かめられる。

秀家ゆかりの地をたどる

岡山城と後楽園は岡山観光の中心であり、城の歴史展示では宇喜多時代の縄張りが詳しく紹介されている。関ヶ原古戦場には宇喜多秀家陣跡が整備されている。天満山の麓に立てば、正面に福島正則の陣、右手に松尾山を望むことができ、あの日の絶望が実感できる。八丈島には宇喜多秀家と豪姫の像が建ち、秀家の墓所も残る。島の高台から本土の方角を望む配置は、望郷の念を象徴している。金沢には豪姫ゆかりの寺があり、加賀前田家が秀家を支え続けた縁を伝えている。

宇喜多家臣団という難題

宇喜多家の家臣団は、父直家が謀略によって従えた在地領主の集合体であった。忠誠心で結ばれた譜代衆ではなく、力関係で従っていた者が多い。戸川達安や花房正幸は、直家の代から宇喜多家を支えた重臣である。彼らは自らの実力で領地を保っており、当主に対しても対等に近い意識を持っていた。秀家が家督を継いだのは十歳のときであり、これら年長の重臣に頭を押さえられる形で成長した。

若い当主が自らの側近を重用したのは、自然な反応であった。しかし急激な人事の刷新は、譜代衆の反発を招く。検地による知行の見直しが引き金となり、対立は表面化した。宇喜多騒動は単なる派閥争いではなく、寄せ集めの家臣団を近世的な組織へ作り替えようとした改革の失敗である。同じ課題に、他の大名も直面していた。明石全登は騒動の後に重用された家臣で、キリシタンとして知られる。

関ヶ原での宇喜多勢の奮戦は、彼の統率力によるところが大きい。全登は関ヶ原の後も生き延び、大坂の陣で豊臣方として戦った。宇喜多の遺臣が最後まで徳川に抗った事実は、秀家の人望を間接的に物語っている。

もし宇喜多騒動がなかったら

関ヶ原における宇喜多勢一万七千は、西軍最大の兵力であった。それでいて、指揮系統は必ずしも万全ではなかった。騒動によって去った重臣たちは、いずれも実戦経験の豊富な将である。彼らが陣中にあれば、宇喜多勢の粘りはさらに強かったであろう。さらに離脱した家臣の多くは東軍に加わっている。宇喜多家の内情を知る者が敵方にいたことも、秀家にとって不利に働いた。

関ヶ原の敗因としては小早川秀秋の裏切りが語られるが、宇喜多家に限っていえば、前年の内紛こそが真の敗因であったともいえる。若くして大身を得た者が、家中をまとめる時間を持てなかった。秀家の悲劇は、才の不足ではなく年月の不足によるものであった。

豪姫と秀家の絆

豪姫は前田利家と芳春院の四女として生まれ、幼くして秀吉と北政所の養女となった。秀吉は豪姫を実の娘のように愛したと伝えられる。秀家との婚姻は、豊臣家と前田家、そして宇喜多家を結ぶ政略であった。しかし二人の間には確かな情愛が育ち、複数の子をもうけている。関ヶ原の後、豪姫は加賀の実家へ引き取られた。夫の助命を願い、島への仕送りを兄の前田利長に頼み込んだのは彼女である。

前田家からの援助は、幕府に届け出たうえで公然と行われた。敵として戦った相手の家族を支え続けることを、幕府が黙認していた点も興味深い。豪姫は元和・寛永の頃まで金沢で生き、秀家より先に世を去った。二人が再び顔を合わせることは、ついになかった。八丈島に建つ秀家と豪姫の像は、この生き別れた夫婦を並べて彫ったものである。四百年を経て、ようやく並んだことになる。

後世における再評価

江戸期の宇喜多秀家は、敗者として語られることが少なかった。八丈島に生きている以上、幕府に憚って積極的に取り上げられなかったのである。近代以降、関ヶ原の研究が進むにつれ、西軍最大の兵力を率いて最後まで戦い抜いた将としての評価が定着していった。近年は「豊臣政権最後の忠臣」として描かれることも多い。三成が政治的な動機を持っていたのに対し、秀家の動機はより単純で、育ててくれた家への恩義であった。

八丈島で八十四年を生きたという事実も、評価を独特なものにしている。多くの敗将が戦場や刑場で果てたのに対し、秀家は敗北の後に半世紀の人生を歩んだ。その五十年に何を思ったのかを記した史料は乏しい。だからこそ想像の余地があり、小説や物語の題材として繰り返し取り上げられてきた。備前の梟雄の子として生まれ、天下人の猶子として育ち、五大老に列し、そして流人となって最も長く生きる。宇喜多秀家の生涯は、戦国という時代の振れ幅そのものである。

五十七万石を失い、五十年を島で過ごしてなお、宇喜多の血は絶えなかった。守るべきものを守り切ったという一点では、秀家は敗者ではなかったのかもしれない。関ヶ原に散った西軍の将のうち、三成も行長も刑場に消えた。ただ一人生き残った五大老が、静かに時代の移り変わりを見届けたという事実は、記憶されてよい。

当図鑑内の関連武将

秀家を我が子のように育てたのが豊臣秀吉、妻の豪姫の父が前田利家である。西軍でともに戦ったのが石田三成と大谷吉継、宇喜多勢を実質的に指揮したのが明石全登であった。関ヶ原で正面から激突した福島正則、逃亡を助けた島津義弘、宇喜多騒動で家を去った戸川達安と花房正幸、そして流刑を命じた徳川家康。あわせてご覧いただきたい。

宇喜多家

主家

宇喜多秀家

家臣団

岡貞綱延原景能戸川達安日笠重長明石全登の肖像イラスト花房正幸花房職秀長船綱直長船貞親
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