村上吉充 | 因島村上氏6代当主。第一次木津川口の戦いで織田水軍を破る

むらかみ よしみつ

地域中国
所属勢力・属性因島村上氏
大名家因島村上氏
家紋―
主武器太刀・水軍旗
衣装・甲冑村上水軍具足
武将タイプ水軍

村上吉充は因島村上氏の6代当主。通称は又三郎、官途名は新蔵人。小早川氏・毛利氏の水軍の一翼を担って瀬戸内海で活動し、天正4年(1576)の第一次木津川口の戦いで織田水軍を破って、石山本願寺への兵糧搬入に貢献した。

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因島村上氏

因島村上氏は、能島・来島とならぶ「三島村上氏」の一家である。備後国因島(尾道市)を本拠とし、芸予諸島の海域を押さえた。

村上氏は海の通行料を取る「札浦」を持ち、水先案内や海上警固を担った。宣教師ルイス・フロイスは村上氏を「日本最大の海賊」と記している。

吉充と毛利・小早川氏

吉充は村上尚吉の子で、弟に吉忠・亮康がいる。因島村上氏は早くから小早川氏と結び、毛利氏の水軍の一翼を担った。弘治3年(1557)1月、吉充は小早川隆景から新蔵人の官途を与えられた。

天文24年(1555)の厳島の戦いでは、因島村上氏は毛利方に加勢した。このときは父尚吉が毛利・小早川氏の求めに応じ、重臣の末長景道が因島の水軍を率いたとされる。

第一次木津川口の戦い

天正4年(1576)7月、毛利氏は織田信長と戦う石山本願寺へ兵糧を運び入れようとした。これを阻む織田水軍と大坂湾の木津川口で戦ったのが第一次木津川口の戦いである。

毛利方の水軍には村上氏も加わり、焙烙火矢(火薬を詰めた投げ込み式の火器)で織田方の船を焼いた。吉充もこの戦いで奮戦し、兵糧搬入の成功に貢献した。

後継と晩年

吉充には実子がなかったとされる。弟亮康の子景隆を養子としたが早世し、その弟の吉亮を後継ぎとした。

関ヶ原の戦いの後、毛利氏は周防・長門の2か国に減封された。吉充は因島に戻り、同地で没したとされる。

ゆかりの地

  • 因島水軍城(尾道市):因島村上氏の武具や古文書を展示する資料館

参考にした資料

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