佐々成政 | 真冬の北アルプスを越え家康に訴えた「さらさら越え」の執念の武将

さっさ なりまさ

地域北陸
所属勢力・属性織田家臣
大名家佐々氏
家紋隅立て四つ目
主武器鉄砲・采配
衣装・甲冑陣羽織・具足
武将タイプ「さらさら越え」・執念
目次

尾張に生まれた武辺者

佐々成政は、織田信長を生んだ尾張国の比良城を本拠とする佐々氏に生まれたと伝わり、生年には一五一六年説と一五三六年説とがあって定かではないものの、若き日から武勇に秀でた一族の男子として育ったと考えられている。佐々の家は尾張の在地領主として一定の勢力を有し、成政は兄たちが相次いで戦死した後に家督を継いだとされ、乱世の武辺者として頭角を現していく素地は、この尾張という群雄割拠の土地柄によって早くから培われていったのである。

織田信長への出仕と黒母衣衆

成政は同じ尾張出身の織田信長に仕え、その馬廻から選抜された精鋭である黒母衣衆の一人に名を連ねたと伝わり、これは信長の親衛隊にして将来を嘱望された若手武将の登竜門ともいうべき栄誉であった。黒母衣衆には成政のほかにも後に大名へと出世する俊英が集められており、成政はこの中にあって槍働きと器量をもって信長の信任を勝ち取り、以後の織田家における立身出世の階段を一歩ずつ上っていくことになる。

数々の合戦での武功

成政は織田軍の主要な合戦にたびたび従軍したと伝わり、越前の朝倉氏や近江の浅井氏との戦い、あるいは各地の一向一揆との激闘の中で、馬廻の一員として、また部隊を率いる将としてその武名を高めていった。信長の勢力が畿内へと拡大していく過程で、成政は前線の実戦部隊を担う立場にあり、負傷を重ねながらも生き延びて戦歴を積み、織田家中における中堅の実力者としての地位を着実に固めていったのである。

越前一向一揆の平定と織田家中での働き

越中を任される以前の成政は、織田信長が越前を席巻していた一向一揆を武力で徹底的に鎮圧した苛烈な戦役にも従軍したと伝わり、宗教的な結束によって各地で蜂起する門徒衆を相手に、寺内町や砦を一つずつ攻め落としていく凄惨な戦いの現場で武功を積み重ねていったと考えられている。また、朝倉・浅井両氏に信長が挟撃されて窮地に陥った金ヶ崎の退き口においても、殿軍を務めた諸将とともに命がけの撤退戦の一翼を担ったとする伝えもあり、こうした織田家中の初期の激戦を生き抜いた経験が、後年の成政の粘り強い用兵と不屈の気質を形づくったといえるだろう。

鉄砲隊の指揮と長篠の戦い

一五七五年の長篠の戦いにおいて、成政は前田利家や福富秀勝らとともに織田軍の鉄砲隊の指揮を委ねられたと伝わり、当時最新の火器であった鉄砲を統制して運用する重責を担った。武田の騎馬勢を鉄砲の斉射によって打ち破ったとされるこの戦いは、戦国の合戦様式を大きく変えた画期として名高く、その最前線で鉄砲足軽を差配した成政の実務的な能力の高さがうかがえる一戦であった。

柴田勝家の与力として北陸へ

織田家が方面軍による領国支配の体制を敷くと、成政は北陸方面の総司令官である宿老・柴田勝家の与力に配され、加賀・能登・越中といった北国の平定という困難な任務に投じられることになった。北陸は一向一揆の勢力が根強く、また越後の上杉氏という強敵を背後に控える最前線であり、勝家の下で成政は前田利家や佐久間盛政らと轡を並べ、雪深い北国での過酷な戦いに明け暮れる日々を送ったのである。

越中平定と一向一揆との死闘

成政に課された最大の任務は越中一国の平定であり、そこでは一向一揆の門徒衆や越後の上杉方に通じる在地勢力が頑強に抵抗し、成政は富山城を拠点として彼らとの長く激しい攻防を繰り広げた。北陸の一向一揆は信仰で結びついた民衆の抵抗であり、その鎮圧は容易ではなかったが、成政は軍事的な圧力と調略を織り交ぜて次第に越中の敵対勢力を切り崩し、一国をおおむね織田方の支配下に組み入れていった。

越後上杉氏との最前線

北陸方面軍に属した成政にとって最大の脅威は、越後から越中へと勢力を伸ばそうとする軍神・上杉謙信であり、成政は魚津城や松倉城といった越中東部の要衝をめぐって、上杉方との一進一退の激しい攻防を長きにわたって繰り広げることになった。一五七八年に上杉謙信が急死し、その後継をめぐって上杉家中が御館の乱と呼ばれる内訌に陥ると、成政ら織田方はこの好機を逃さず越中への侵攻を強め、上杉方に通じる在地勢力を次々と切り崩して、越中一国のほぼ全域を織田の版図へと組み入れる足がかりを築いていったのである。

越中一国の主となる

こうした戦功によって、成政は一五八一年ごろに信長から越中一国をほぼ与えられ、富山城を居城とする一国持ちの大名格へと栄達を遂げ、尾張の一武辺者から出発した男は北国に確固たる領国を築くに至った。富山の地に腰を据えた成政は、城下の整備や領内の統治に意を用いたと伝わり、また常願寺川の治水に関わる築堤の伝承が後世に残るなど、単なる猛将にとどまらぬ為政者としての一面をもうかがわせている。

富山城と越中一国の統治

越中一国の主となった成政は、神通川のほとりに位置する富山城を居城として大きく整え、水運と交通の要をおさえる城下の経営に力を注いだと伝わり、単に戦に長けた猛将であるにとどまらぬ、領国を治める為政者としての手腕をここで発揮した。とりわけ、暴れ川として知られた常願寺川の氾濫を防ぐために築かせたと伝わる大規模な堤は「佐々堤」の名で後世に語り継がれており、真偽には慎重を要するものの、成政が治水や領民の暮らしにも意を用いた統治者であったことをうかがわせる貴重な伝承として今日まで残されている。

同僚にして隣人・前田利家

越中の西隣の能登を与えられていたのが前田利家であり、利家もまた尾張出身で信長の親衛隊である赤母衣衆の筆頭を務めた経歴を持つ、成政とは出自も経歴もよく似た好敵手にして同僚であった。黒母衣と赤母衣という信長の両親衛隊を代表する二人は、若き日から競い合いながら北陸の隣り合う国を治める間柄となったが、やがて信長亡き後の政局の中で、この二人の運命は明暗を分けて大きく分岐していくことになる。

本能寺の変と信長の死

一五八二年六月、主君織田信長が家臣明智光秀の謀反によって京の本能寺で横死するという未曾有の大事件が起こったとき、成政は北陸の最前線で越後の上杉勢と対峙する魚津城攻めの渦中にあった。主君の突然の死は北陸方面軍の将たちを騒然とさせ、成政もまた領国防衛のために越中に釘付けとなって、光秀討伐のために畿内へ駆け戻ることは叶わず、この不在が後の政局における成政の立ち位置を大きく左右することになる。

清須会議後の織田家中

光秀を山崎で討ち取った羽柴秀吉が織田家中で急速に台頭すると、信長の後継と遺領の配分を決める清須会議を経て、宿老柴田勝家と秀吉との対立が抜き差しならぬものへと深まっていった。北陸に領国を持つ成政は、直属の上役であり長年の主将でもあった勝家との結びつきが深く、また北国の防衛という現実の任務も抱えていたため、おのずと勝家方の陣営に属する立場に立たされることになったのである。

賤ヶ岳の戦いと勝家の滅亡

一五八三年、勝家と秀吉はついに近江の賤ヶ岳で激突するが、このとき成政は上杉勢への備えのために越中を離れられず、わずかな手勢を送るにとどまって、自ら主力を率いて勝家に馳せ参じることはできなかった。戦いは秀吉方の勝利に終わり、勝家は越前北庄城で妻お市の方とともに自刃して果て、成政が頼みとした後ろ盾は失われ、隣国の前田利家がいち早く秀吉方へ転じたのとは対照的に、成政は苦しい立場へと追い込まれていく。

秀吉への一時の従属

主将勝家を失った成政は、いったんは新たな天下人となりつつあった秀吉に従う姿勢を示して越中の所領を安堵され、表向きは秀吉の傘下に組み込まれる形で当座をしのぐこととなった。しかし成政の胸中には、旧主信長の恩義を軽んじて主家を蚕食する秀吉への強い反発がくすぶっていたとされ、この従属はあくまで一時のものにすぎず、機を見て反旗を翻す火種を内に秘めたものであった。

小牧・長久手の戦いと反秀吉

一五八四年、信長の次男織田信雄が徳川家康と結んで秀吉に対抗する小牧・長久手の戦いが起こると、成政はこれを好機と見て反秀吉の旗幟を鮮明にし、家康・信雄方に呼応する動きを見せた。隣国の前田利家が秀吉方として確固たる立場を取っていたため、成政の反旗は背後に強力な敵を抱える危険なものであったが、それでも成政は旧主家の再興と秀吉打倒に一縷の望みを賭けて、北陸で兵を動かしたのである。

末森城の戦い—前田利家との直接対決

反秀吉の兵を挙げた成政は、一五八四年、秀吉方に与する隣国の前田利家を叩くため、加賀と能登を結ぶ交通の要衝である末森城へと大軍を差し向け、城を幾重にも包囲して落城寸前まで追い詰めたと伝わっている。報を受けた前田利家は、暴風雨をおして自ら救援の軍を率いて夜を徹して駆けつけ、成政勢の背後を突いて包囲を打ち破り、末森城を辛くも守り抜いたとされ、この一戦は同じ尾張・母衣衆出身の両雄が北陸で正面から刃を交えた、両者の明暗を分ける象徴的な合戦となった。

前田利家との対比

成政と前田利家は、ともに尾張に生まれ、信長の親衛隊である母衣衆に選ばれて頭角を現し、北陸の隣り合う国を治める大名にまで昇りつめたという、驚くほどよく似た経歴を歩んだ好敵手であったが、信長の死後にたどった運命は対照的なものとなった。利家が賤ヶ岳でいち早く秀吉方へ転じて時流を巧みに読み、加賀百万石の礎を築いて子孫を大大名として存続させたのに対し、成政はあくまで反秀吉の姿勢を貫いて滅びへの道を歩んだのであり、この明暗の分かれ目は、乱世を生きる武将にとって時勢を見る目がいかに重いものであったかを、後世に鮮やかに物語っている。

家康・信雄の和睦と成政の孤立

ところが成政の期待に反して、小牧・長久手で局地的な勝利を収めていた家康と信雄は、やがて秀吉との間に和睦を成立させてしまい、反秀吉の連携はあっけなく瓦解することになった。後ろ盾となるはずの東方の同盟が崩れたことで、成政は北陸において前田利家と秀吉方の大勢に包囲される形となり、このままでは坐して滅びを待つほかない絶望的な孤立へと陥っていったのである。

さらさら越えの決行(と伝わる)

この窮地を打開すべく、成政は一五八四年の暮れ、真冬の厳寒の中を自ら少数の供を率いて、雪と氷に閉ざされた北アルプス立山連峰を踏み越え、遠く浜松の徳川家康のもとへ直談判に赴いたと伝わる。「さらさら越え」と呼ばれるこの決死行は、標高三千メートル級の峰々が連なる冬の飛騨山脈を人が越えるという常識を絶した挙であり、成政の武将としての執念と行動力を象徴する逸話として、後世に広く語り継がれてきた。

さらさら越えの諸説

もっとも、このさらさら越えについては、越えたとされる具体的な峠のルートや、そもそも真冬の立山越えが本当に可能であったのかをめぐって古くから異論があり、その経路には複数の説が唱えられている。また、その目的についても、家康に再挙を促すためであったとする説のほか、信雄への説得や情勢の打診が主眼であったとする見方もあり、劇的な逸話であるだけに脚色を含む可能性も指摘されるため、慎重に「と伝わる」と留保して受け止めるのが穏当であろう。

さらさら越えの地理と立山信仰

成政が越えたと伝わる立山連峰は、古くから山岳信仰の霊地としてあがめられ、地獄谷や剣岳の峻険な岩稜を擁する、標高三千メートル級の峰々が連なる飛騨山脈の中でも屈指の難所であり、真冬にこれを人が越えるなど本来は思いも寄らぬことであった。伝承では、成政の一行はザラ峠を越えて信濃側へと下ったとされ、雪崩や吹雪、深い雪に阻まれながらの決死行であったと語られるが、そのルートの実在性には諸説あって定かではなく、劇的な逸話であるだけに、あくまで「と伝わる」ものとして慎重に受け止めるべき伝説の色合いを帯びている。

説得の失敗と帰国

苦難の末に家康と対面したと伝わる成政であったが、すでに秀吉との和睦に踏み切っていた家康を再び挙兵へと動かすことはできず、その決死の直談判は実を結ばぬまま終わったとされる。雪山を越えて命がけで駆けつけた献策が容れられなかったことで、成政の反秀吉の望みは事実上断たれ、彼は再び来た道をたどって越中へと戻り、迫りくる秀吉の大軍を独り迎え撃つほかない立場に置かれたのである。

秀吉の越中征伐と降伏

一五八五年八月、秀吉は十万ともいわれる大軍を自ら率いて越中へ攻め寄せ、成政の富山城を幾重にも包囲すると、圧倒的な兵力の差を前にして、もはや抗戦の術を失った成政は降伏を余儀なくされた。このとき仲介に立ったのは、かつての同僚であり今は秀吉方の重鎮となっていた前田利家であったとも伝わり、成政は越中の大半を召し上げられて一大名としての勢力を失い、頭を丸めて秀吉に臣従する身へと転落した。

御伽衆としての雌伏

越中を失った成政は、命こそ助けられたものの、秀吉の御伽衆すなわち主君の側近くに侍って話し相手を務める者の一人に加えられ、かつて一国を号令した猛将は雌伏の日々を強いられることになった。天下人となった秀吉のもとで旧敵が飼い殺しの境遇に置かれるのは戦国のならいであったが、成政は武人としての気概を失わず、いつか再び領国を得て雄飛する機会をうかがいながら、屈辱に耐えて時を待ち続けたと考えられている。

早百合姫伝説

成政をめぐっては、寵愛した早百合姫という側室が不義密通の疑いをかけられ、成政の怒りによって無惨に殺されたという悲劇的な伝説が後世に伝えられており、殺された姫は死に際に佐々家の呪いと滅亡を言い残したとも語られている。この物語はしばしば、後の成政の改易や切腹という悲運と結び付けて語られてきたが、その多くは史実の裏付けを欠く後世の創作や脚色と考えられており、成政の悲劇的な最期を彩る文芸的な伝説として、史実とは切り分けて慎重に扱うのが妥当であろう。

九州平定の功と肥後一国

一五八七年、秀吉が島津氏を屈服させた九州平定の戦役に成政も従軍してその功を認められ、恩賞として肥後一国という大国の統治を任され、成政はここに再び大名として返り咲く機会を得た。一度は没落した身から一国の主へと復帰したことは成政にとって起死回生の登用であったが、肥後は在地の国人領主たちが根強い自立性を保つ統治の難しい土地であり、この抜擢はそのまま新たな悲劇の入り口ともなっていった。

肥後国人一揆の勃発

肥後に入った成政は、秀吉から国人衆の既得権を当面は保障するよう指示されていたにもかかわらず、早々に検地を強行して土地の掌握を急いだため、隈部氏をはじめとする国人領主たちの激しい反発を招いた。こうして肥後全土に燃え広がった国人一揆は成政の手には負えぬ大乱へと発展し、秀吉は近隣の諸大名に鎮圧を命じてようやくこれを平定したものの、新領主として国を治めきれなかった成政の失態は誰の目にも明らかとなった。

肥後国人一揆の具体的経緯

肥後に封じられた成政の躓きは、秀吉から当面は国人衆の旧来の権益を保障するよう釘を刺されていたにもかかわらず、入国して間もなく検地を強行し、在地の武士たちが代々握ってきた土地の支配を急速に切り崩そうとした施策の性急さにあったとされる。これに対し、肥後北部に大きな勢力を張っていた隈部親永が反旗を翻すと、反発は他の国人衆へと燃え広がって肥後全土を巻き込む大一揆へと発展し、成政の手勢だけでは到底鎮めきれず、ついには秀吉が周辺の諸大名に鎮圧を命じて出兵させる事態にまで立ち至ったのである。

改易と切腹——悲劇の最期

一揆を招いた統治の失敗の責を厳しく問われた成政は肥後を召し上げられて改易となり、摂津尼崎に留め置かれたのち、一五八八年、秀吉の命によって切腹を申し付けられ、その波乱の生涯を自ら閉じた。尾張の武辺者から身を起こして越中一国の主にまで昇りつめ、真冬の立山を越えてまで抗おうとした不屈の男は、最後は統治者としての躓きによって腹を切るに至り、乱世に翻弄された悲劇の武将として、その名を今日まで語り継がれている。

人物評と後世の評価

佐々成政は、黒母衣衆として信長に見出され、幾多の合戦で武名を馳せ、真冬の立山を越えてまで秀吉に抗おうとした不屈の闘志の持ち主として、戦国屈指の猛将の一人にその名を数えられ、武人としての評価は今日なお高いものがある。その一方で、肥後において在地勢力の統治にことごとく失敗し、一国を治めきれずに改易と切腹に追い込まれた末路は、戦場での勇猛さと領国経営の巧拙とが必ずしも一致しないことを示しており、時勢を読み損ねて滅んだ悲劇の武将として、成政は今もなお人々の哀惜と関心を集め続けているのである。

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