もり ながよし
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 織田・豊臣系 |
| 大名家 | 織田 |
| 家紋 | 丸に水車 |
| 主武器 | 人間無骨(大槍) |
| 衣装・甲冑 | 百つかみ兜・黒具足 |
| 武将タイプ | 「鬼武蔵」・苛烈 |
森可成の長男。「鬼武蔵」と恐れられた戦国屈指の狂気の猛将。小牧・長久手の戦いにて鉄砲弾を眉間に受け討死。
森可成の次男
長可は織田家の重臣森可成の次男として生まれました。兄が早くに戦死し、父可成も1570年に討死したため、若くして森家を継ぐことになりました。
13歳で家督
長可が家督を継いだのは13歳のころでした。若くして父の跡を継いだ長可は、織田家の武将として戦いの日々を送ることになります。
「鬼武蔵」の異名
長可は戦場での猛烈な戦いぶりから「鬼武蔵」と呼ばれました。武蔵守の官途を名乗っていたことにちなむ呼び名です。
十文字槍「人間無骨」
長可は、「人間無骨」と銘を刻んだ十文字槍を愛用したと伝えられます。人の骨など無いかのように切れる、という意味を込めた名だといわれます。
長島一向一揆との戦い
長可は信長の長島一向一揆攻めにも加わり、激しい戦いを経験しました。
甲州征伐
1582年の甲州征伐では、長可は織田信忠の軍に加わり、信濃の高遠城攻めなどで活躍しました。
信濃の領主
武田家滅亡後、長可は信濃の川中島四郡を与えられ、海津城を本拠としました。若くして広い領地を任されたのです。
本能寺の変
1582年6月、本能寺の変で信長が討たれました。長可の弟成利(蘭丸)たちも本能寺で命を落としました。
信濃からの撤退
信長の死によって信濃の情勢は不安定になり、長可は信濃を離れて美濃の金山城に戻りました。撤退の途中、敵対する勢力の攻撃をくぐり抜けたと伝えられます。
羽柴秀吉に従う
その後、長可は羽柴秀吉に味方しました。舅の池田恒興とともに、秀吉方の有力な武将として活動しました。
小牧・長久手の戦い
1584年、秀吉と徳川家康・織田信雄の間で小牧・長久手の戦いが起こりました。長可は池田恒興らとともに、家康の本拠三河を突く作戦に加わりました。
長久手での討死
しかしこの作戦は家康に察知され、長久手で徳川軍の攻撃を受けました。長可は鉄砲に撃たれて討死しました。27歳の若さでした。
遺言状
長可は出陣の前に遺言状を書き残していました。その中には、もし自分が討死したら娘は医者か町人に嫁がせてほしいという内容が書かれており、武家の生き方の厳しさを知る長可の思いがうかがえます。
弟の忠政
長可の死後、森家は弟の忠政が継ぎました。忠政はのちに美作津山の大名となり、森家を江戸時代に残しました。
荒々しい逸話
長可には、関所の番人を斬ったなど、荒々しい逸話も多く伝わっています。その激しい気性は、「鬼武蔵」の名にふさわしいものでした。
可成・長可父子
父の可成も「攻めの三左」と呼ばれた猛将で、長可はその武勇を受け継ぎました。父子ともに戦場で命を落とした、勇猛な武将の家系でした。
長可の評価
長可は、若くして森家を継ぎ、信長・秀吉のもとで戦い抜いた猛将です。その短く激しい生涯は、「鬼武蔵」の名とともに今も語り継がれています。
このイラストについて
赤く燃える空の下、長い槍を構えて突き進む若武者の姿です。
長可は「鬼武蔵」と呼ばれた猛将で、「人間無骨」と銘を刻んだ十文字槍を愛用したと伝えられます。槍を構えて突き進む姿は、その激しい戦いぶりを表しています。旗の紋や顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
尾張守護代のうち清洲織田家に仕えた三奉行の一家、弾正忠家から出た。信長の父信秀は津島や熱田の商業の富を背景に台頭し、主家をしのぐ力を持った。
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