うえすぎ かげかつ
| 地域 | 甲信越 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 上杉氏 |
| 大名家 | 上杉氏 |
| 家紋 | 竹に雀 |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 漆黒塗黒糸威具足 |
| 武将タイプ | 寡黙・威厳 |
上杉景勝は越後国の上田長尾家・長尾政景の子として生まれ、上杉謙信の姉の子にあたることから謙信の養子となった。謙信は生涯妻を娶らず実子がなかったため、景勝ともう一人の養子・上杉景虎が後継者候補として並び立つこととなる。
1578年に謙信が急死すると、後継の座をめぐって景勝と景虎の間で御館の乱と呼ばれる激しい内乱が勃発した。景勝は春日山城とその財力を早期に掌握するという有利な立場を活かして景虎方を圧倒し、最終的に勝利を収めて上杉家の当主の座を確立した。
家督相続後は執政・直江兼続の補佐を受けながら領国経営を進め、豊臣秀吉に臣従して越後・佐渡に加え会津120万石へと大幅に加増移封される。五大老の一人に列せられるなど、豊臣政権下で重きをなす大名へと成長した。
秀吉の死後、徳川家康からの上洛要求を直江状によって拒絶し、家康の会津征伐を招くこととなる。この対応が結果的に石田三成の挙兵を誘発し、関ヶ原の戦いの引き金の一つとなった。関ヶ原本戦では西軍に与したため、戦後は会津120万石から米沢30万石へと大幅に減封される厳しい処分を受けた。
減封後も上杉家の存続に尽力し、質実剛健な統治を貫いた。師である謙信譲りの寡黙で威厳ある人柄から「無口な名将」として知られ、生涯を通じて多くを語らずとも家臣団からの信頼は厚かったと伝えられる。米沢藩の基礎を築いた景勝の統治は、後の名君・上杉鷹山による藩政改革へとつながる礎ともなった。

