2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」——兄・豊臣秀吉と弟・秀長が、地方の一部将から天下人へと駆け上がっていく物語。その運命を一変させた、たった一度の凶変があります。本能寺の変(ほんのうじのへん)。主君・織田信長が、家臣・明智光秀の謀反によって京都で斃れたこの事件こそ、豊臣兄弟の天下取りが始まった日でした。この記事では、本能寺の変そのものと、そこから兄弟がどう動いたのかを、史実にもとづいて追っていきます。
天正10年6月2日、本能寺
天正10年6月2日(西暦1582年)の早朝、京都・本能寺に宿泊していた織田信長は、家臣であるはずの明智光秀の軍勢に突如として包囲されます。中国地方への出陣を控えた信長は、わずかな小姓衆を連れるのみで、大軍に襲われることなど予想もしていませんでした。
包囲を悟った信長は「是非に及ばず」と言い放ち、弓や槍を手に自ら奮戦したと伝えられます。しかし多勢に無勢、肘に槍傷を負って奥へ退くと、殿中で自害しました。まもなく御殿には火が放たれ、信長の遺体はついに発見されませんでした。同じ頃、京にいた嫡男・織田信忠も二条御所に立てこもって抵抗しますが、こちらも力尽き、建物に火を放って自害。織田家の当主と後継者が、一夜にして同時に失われたのです。
なぜ光秀は信長を裏切ったのか
これほどの大事件でありながら、明智光秀が主君を討った動機は、いまも定説がありません。信長から受けた仕打ちへの怨恨とする説、天下を狙った野望とする説、朝廷や他の大名を黒幕とする説など、じつに多種多様な仮説が唱えられてきましたが、決め手となる史料はなく、真相は謎に包まれたままです。この「動機の謎」こそが、本能寺の変を戦国最大のミステリーたらしめている理由でもあります。
報せは備中高松城の陣中へ——秀吉と秀長
信長が斃れたそのとき、羽柴秀吉と弟・秀長の兄弟は、遠く備中高松城(現在の岡山市)にいました。毛利方の清水宗治が守るこの城を水攻めにし、毛利軍の主力と対峙していたのです。まさに前線での大勝負の最中に、主君横死という衝撃の報がもたらされました。
ここで秀吉が見せた決断と速さは、のちの天下取りを予感させるものでした。彼は動揺を押し隠して情報を封じ、毛利方とすばやく和睦を成立させます。弟・秀長もまた、この緊迫の陣中で兄を支える立場にありました。清水宗治の切腹と引き換えに高松城を開城させると、兄弟はただちに全軍を京へと反転させます。
中国大返し——天下取りへの疾走
ここから始まるのが、日本史上有名な強行軍「中国大返し」です。秀吉軍は、備中高松からおよそ10日間で200km以上もの道のりを駆け抜け、京の近くまで軍を返しました。梅雨の悪路を、大軍が驚異的な速さで移動したこの撤退戦は、周到な段取りと兵の統率なくしては不可能なものでした。
墨俣一夜城以来、兄・秀吉の事業を後方から支えてきた弟・秀長にとっても、この大返しは兄弟の力量が試される場面でした。誰よりも早く主君の仇の前に立つ——その一点に、秀吉・秀長兄弟は組織の総力を注ぎ込んだのです。
山崎の戦いと、光秀の「三日天下」
天正10年6月13日、京の南西・山崎(天王山のふもと)で、秀吉軍と明智光秀軍が激突します。山崎の戦いです。数でも勢いでも勝る秀吉軍は光秀軍を打ち破り、勝負は短時間で決しました。「天王山」が今日でも勝負の分かれ目を指す言葉として使われるのは、この一戦に由来します。
敗れた光秀は再起を図る間もなく、敗走の途中で落ち武者狩りにあって命を落としました。信長を討ってからわずか十数日、いわゆる「三日天下」の、あまりにもあっけない最期でした。主君の仇を最も早く討った秀吉は、これによって織田家中で決定的な発言力を得ることになります。
そして清洲会議へ——兄弟の時代の幕開け
山崎の勝利のあと、織田家の後継と領地の配分を決める清洲会議が開かれ、秀吉は主導的な立場に立ちました。かつて尾張の農村にいた兄弟が、いまや天下の行方を左右する存在へと躍り出たのです。
本能寺の変は、織田信長という巨星の悲劇的な最期であると同時に、豊臣秀吉・秀長兄弟が天下へと駆け上がっていく「はじまりの日」でもありました。大河ドラマ「豊臣兄弟!」においても、この事件は物語を大きく動かす分岐点として描かれることになるでしょう。若き日に田畑を耕していた兄弟が、ここからいかにして天下人とその右腕になっていくのか——本能寺の変は、その壮大な物語の号砲だったのです。
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