金森長近 | 飛騨高山を開いた初代藩主、茶人素玄

かなもり ながちか

地域北陸・東海
所属勢力・属性織田家→豊臣家→徳川家
大名家金森家
家紋―
主武器槍
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ築城・町づくりに長けた知将

金森長近は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた武将である。越前大野と飛騨高山に城下町をつくり、今も残る町並みの基礎を築いた。晩年は素玄と号し、茶の湯でも知られた。

目次

美濃土岐氏の流れをくむ家

長近は大永4年(1524)に生まれた。美濃の土岐氏の一族で、大畑定近の子とされる。家はのちに近江国野洲郡金森(滋賀県守山市)へ移り、その地名をとって金森氏を名のった。

長近は織田信長に仕え、柴田勝家の下で働いた。天正3年(1575)の長篠の戦いでも手柄を立てたとされる。

越前大野の城下町づくり

天正3年(1575)、長近は信長から越前大野郡の領地を与えられた。亀山の頂上に大野城を築き、城のまわりに武家屋敷を置いた。

城の東には、京都にならって碁盤の目のような町をつくり、さらに東に寺を集めた寺町を置いた。大野を治めたのは約10年であったが、この町並みは今もほぼそのまま残り、「北陸の小京都」と呼ばれている。

秀吉に仕え飛騨の国主へ

天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗れると、長近は秀吉に仕えた。天正13年(1585)、秀吉の命令で飛騨の三木氏を攻めほろぼした。

天正14年(1586)、飛騨高山に3万8000石余で封じられた。長近は高山城を築き、城下町を整えた。これが今の高山の町の始まりである。越前大野と飛騨高山の二つの町に、長近の町づくりの考え方が残っている。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは家康方についた。戦後、美濃上有知(岐阜県美濃市)などを加えられ、領地は合わせて6万1000石になった。

茶人素玄と金森家のその後

長近は晩年に素玄と号し、茶の湯に通じた人として知られた。慶長13年(1608)8月12日、伏見で亡くなった。京都・大徳寺の金竜院に葬られた。

高山城は養子の可重がつぎ、可重は高山に菩提寺の素玄寺を建てた。金森家はその後、元禄5年(1692)に出羽上山へ、元禄10年(1697)に美濃郡上八幡へと移された。宝暦8年(1758)、7代の頼錦のときに改易となり、大名としての金森家はここで終わった。

ゆかりの地

  • 高山城跡(岐阜県高山市):長近が築いた城。城山には長近の騎馬像が立つ
  • 越前大野城(福井県大野市):長近が亀山に築いた城。城下に碁盤目の町並みが残る
  • 素玄寺(岐阜県高山市):養子の可重が長近の菩提をとむらうために建てた寺

参考にした資料

金森長近とは

金森長近は、信長・秀吉・家康に仕えた武将で、のちに飛騨の高山藩の藩主となりました。

越前大野

長近は、越前の大野を任され、城下町を整えました。今の大野の碁盤の目の町並みは、その流れを受け継いでいます。

飛騨の国主

長近は、秀吉の命で飛騨を攻め、飛騨一国を与えられました。高山の城下町も、長近が整えたものです。

茶人として

長近は、茶の湯にも通じ、素玄と号しました。

評価

長近は、越前大野と飛騨高山という二つの城下町の基礎を築いた武将です。その町並みは、今も多くの人に親しまれています。

このイラストについて

このイラストは、山並みと城を背に、茶碗を前にした長近を描いています。

落ち着いた表情と茶碗で、茶の湯を愛した武将の一面を表しました。

夕暮れの山と城は、長近が治めた飛騨高山の景色をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

織田家

尾張守護代のうち清洲織田家に仕えた三奉行の一家、弾正忠家から出た。信長の父信秀は津島や熱田の商業の富を背景に台頭し、主家をしのぐ力を持った。

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