まつなが ひさひで
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 松永氏 |
| 大名家 | 松永氏 |
| 家紋 | 蔦 |
| 主武器 | 太刀・平蜘蛛茶釜 |
| 衣装・甲冑 | 高級具足 |
| 武将タイプ | 梟雄・不屈 |
松永久秀とは何者か
松永久秀は戦国時代の畿内に生きた武将であり、身分の低い家に生まれながら主家・三好長慶のもとで実務官僚として抜群の才を発揮して急速に頭角を現し、やがて大和一国をおのれの支配下に切り従えるまでに成り上がった、まさに下剋上の乱世を象徴する立志伝中の人物として今日まで広く知られている。将軍の殺害や東大寺大仏殿の焼失、そして主家の乗っ取りといった数々の悪名から、後世に「戦国三大梟雄」の一人として長く厳しく指弾されてきた一方で、当代随一とうたわれた一流の茶人でもあったという、常人にはとうてい測り難いほど複雑な二面性を色濃く帯びていた稀有な存在であった。
織田信長に二度までも公然と背き、最後は天下の名器「平蜘蛛」の茶釜とともに信貴山城で壮絶な爆死を遂げたと伝わるなど、その波乱に満ちた生涯は虚実の入り混じった劇的な逸話に幾重にも彩られており、四百年余りを経たいまなお人々の想像力を強くかき立て続けているのである。
出自と前半生の謎
松永久秀の前半生を伝える確かな史料はきわめて乏しく、その出自については阿波の出とも山城西岡の土豪の子ともさまざまに語り伝えられているが確たることは何一つ分からず、身分の低い家に生まれたのだとする見方だけが、古くから漠然と広く受け入れられてきたというのが実情である。生年は1508年頃と推定されているものの確かな根拠には乏しく、彼が明瞭な姿をもって歴史の表舞台に立ち現れるのは三好長慶に右筆や奉行として仕えてから以後のことであって、それ以前のおよそ半生の歩みは、ほとんど深い霧の中に閉ざされたままとなっているのである。
取るに足らぬ低い身分から実力と才覚のみをひたすら頼りに畿内の頂点近くまで一気に駆け上がったというその華々しい経歴こそが、後世の人々をして彼を典型的な下剋上の梟雄として繰り返し語らせていく格好の下地となったのだと、今日では広く考えられているのである。
三好長慶との出会いと台頭
松永久秀が長きにわたり仕えることになった三好長慶は、本来の主家である細川氏や時の将軍・足利氏をも実力で凌ぐほどの一大勢力を築き上げ、京の都を含む畿内一円を実質的に自らの支配下に置いた戦国屈指の実力者へと、着実にのし上がっていった稀代の英傑であった。久秀はその長慶の右筆や奉行として煩雑をきわめる文書行政や難しい外交交渉を一手に引き受け、抜群の事務能力と生来の機転をもって主君の絶大な信任をたちまち勝ち取り、家中にあって他を圧倒するほどの重い地位を、驚くべき速さで着実に固めていったのである。
武辺一辺倒の勇者だけではとうてい立ち行かぬ広域政権の運営においては、法や礼、そして人脈を自在に操ることのできる久秀のような官僚型の卓越した才こそが不可欠であり、彼はまさにその切実な需要に応える形で、乱世の畿内に華々しく頭角を現していったといえるだろう。
三好政権の実務を担う
三好長慶が京を制圧して幕府の政治にも強い影響力を及ぼすようになると、松永久秀はその新たな政権の実務を担う中枢的な存在として、京都の統治や有力寺社との難しい折衝、諸大名とのきわめて微妙な調整などを、日々きわめて精力的に取り仕切っていくことになった。実の弟である松永長頼もまた丹波方面で目覚ましい活躍を見せており、松永一族は三好政権を根底から支える最も有力な柱の一つとして重きをなし、久秀個人の権勢もまた主家の勢力拡大と歩調を合わせるように、年を追うごとにいよいよ大きく膨らんでいったのである。
やがて彼は単なる一家臣という枠をはるかに超え、三好政権そのものの重大な意思決定に深く関与する枢要な存在へと着実に成長を遂げ、その影響力の並外れた大きさは、同時代を生きた公家や僧侶が書き残した数々の日記にも、しばしば克明に記されているのである。
弾正忠の官位と権勢
松永久秀は朝廷から弾正忠、のちには弾正少弼という官位を授かったことから、世に「松永弾正」の名で広く知られるようになり、この由緒ある古めかしい官名はいまなお彼という人物を鮮やかに象徴する呼び名として、多くの人々に長く親しまれ続けているのである。官位の獲得は、彼が単なる一介の武人にとどまらず朝廷や幕府とも対等に渡り合えるだけの十分な格式を確かに備えた存在であったことを何よりも雄弁に物語っており、その権勢は主家・三好家の絶大な勢威を確かな背景として、いよいよ大きく高まっていったのである。
公家社会との親密な交流や官位の巧みな運用に人並み外れて長けていたという点は、後年に彼が茶の湯を介して当代一流の文化人たちと深く交わっていく確かな素地となり、武と文の双方に通じた並外れた多面性を、彼が早くから豊かに育んでいたことをよく示している。
大和への進出と信貴山城
松永久秀は三好政権の勢力拡大の重要な一翼を担って大和国への本格的な進出を精力的に推し進め、興福寺をはじめとする強大な寺社勢力が根強く割拠していたこの由緒ある地に、武家の手による新たな支配秩序を力ずくで打ち立てようと大胆に図っていったのである。その大和経営の確かな拠点として彼が本格的に整備したのが名高い信貴山城であり、険しい山上に堅固な石垣や礎石建物を備えたその壮麗な城郭は、旧来の粗末な砦とは明らかに一線を画す先進的な軍事・政治の中心として、みごとに機能したと考えられているのである。
寺社の権威がなお絶大であった大和において武家がまるごと一国を実力で支配下に置くことは決して容易ではなく、久秀の野心的な大和経営は、在地勢力による絶えざる激しい抵抗との緊張のうちに、辛抱強く進められていったきわめて困難で息の長い事業であった。
多聞山城の築城とその革新
松永久秀が奈良の地に新たに築いた多聞山城は、四階建てとも伝わる異例の高層の櫓や連続する長屋状の櫓を巧みに備え、後の日本の城郭建築のあり方そのものに計り知れないほど大きな影響を与えた画期的な城として、今日まで広くその名を知られているのである。石垣を惜しみなく多用し、瓦や白漆喰で美しく飾り立てられたその堂々たる威容は訪れた者を一様に驚嘆させたと伝わり、城壁上に長く連なる「多聞櫓」の呼び名はこの城に由来するとされ、まさに日本の築城史における一つの輝かしい到達点として高く評価されている。
純然たる軍事拠点であると同時に、久秀が秘蔵の名物茶器をずらりと並べて優雅な茶会を催し、公家や文化人をあでやかにもてなす社交と文化の華やかな舞台でもあった点に、武将と数寄者という二つの顔をあわせ持つ彼らしさが、ことのほかよく表れているのである。
筒井順慶との宿命の対立
大和一国の支配権をめぐって松永久秀が生涯にわたり幾度も激しく争い続けたのが、興福寺の衆徒を出自として同国に深く強固な地盤を築いていた在地の名門・筒井順慶であり、両者の宿命的な抗争は、幾度となく大和一円を凄惨な戦火の巷へと巻き込んでいったのである。久秀は一時こそ筒井氏を大和の地から完全に追い落とすほどの圧倒的な優勢を得たものの、めまぐるしい政局の変転とともに両者の形勢は目まぐるしく入れ替わり、その争いは畿内全体の複雑きわまる勢力図とも密接に連動しながら、実に長く尾を引いていったのである。
のちに織田信長のもとで両者がともに従属しつつも互いに冷たく反目し続けたというその関係は、大和における新興の武家勢力と在地の伝統的な権威との根深い対立が、そう容易には解きほぐせるものではなかったことを、何よりもよく物語っているといえるだろう。
将軍・足利義輝殺害への関与
1565年、室町幕府の将軍・足利義輝が三好三人衆らの軍勢に京の二条御所を突如として襲撃され、みずから刀を取って奮戦の末に非業の最期を遂げるという未曾有の大事件が起こり、松永久秀もこの永禄の変に深く関与した張本人として、後世に長く語り継がれてきた。しかし近年の実証的な研究では、この襲撃を現場で直接主導したのは三好三人衆と久秀の子・松永久通であって、久秀自身は当時大和にあって現場には居合わせてすらおらず、その直接の関与はかなり限定的なものにとどまっていたとする見方が、次第に有力になっている。
将軍を弑逆したという計り知れないほど重い汚名は、後の彼の救い難い悪評を決定づける最大の要素となっていったが、その実際の関与の度合いについては今なお諸説が並び立っており、確たる史実として断定するには、なお慎重な留保が必要とされているのが現状である。
三好三人衆との反目
三好長慶の死後、その揺らぐ政権を本来支えるべきであった三好長逸・三好政康・岩成友通のいわゆる三好三人衆と松永久秀とは、主家の主導権の帰趨をめぐって鋭く対立するようになり、やがて畿内を真っ二つに分かつ激しい抗争へと、後戻りできぬまま突き進んでいった。かつては将軍殺害という大事において行動をともにしたとされる両者であったが、長慶亡き後に生じた大きな権力の空白をいかにして埋めるかをめぐって決定的に決裂し、大和や河内、摂津を舞台に合従連衡を執拗に繰り返す泥沼の戦いが、実に幾年にもわたって続いた。
この果てしない内紛こそが、かつて強大を誇った三好政権を内側から静かに蝕んで衰退へと追いやり、ひいては織田信長という新たな巨大勢力が畿内へと堂々進出してくる絶好の好機を与える結果となった点は、後世に歴史の皮肉として、長く記憶されるべきものであろう。
東大寺大仏殿の焼失
1567年、松永久秀の軍勢と三好三人衆の軍勢が東大寺の広大な境内を挟んで激しく対陣するさなか、荘厳な大仏殿が突如として炎上し、盧舎那仏の頭部が無残に焼け落ちるという痛ましい惨事が起こり、後世これもまた久秀の重大な悪行として長く語り継がれていった。だが出火の原因については、三人衆側の陣中からの不慮の失火であったとも、あるいは久秀方が夜襲を仕掛けた際に生じた混乱によるものともさまざまに伝わり、久秀が意図的に大仏殿を焼き払ったのだと断ずるだけの確たる証拠はなく、今なお諸説が並び立っているのである。
信仰の中心であった大仏を焼いたという事実のあまりの重さゆえに、出火原因の如何を問わず久秀の名にこの拭い難い汚名が固く結び付けられていったその経緯には、後世におけるさかんな物語化の作用が色濃く働いていたのだと、近ごろでは考えられているのである。
主家・三好家の凋落と簒奪の評
三好三人衆との果てしない抗争や当主たちの相次ぐ早世によって、かつて隆盛を誇った名門三好家が急速に力を失っていく過程で、松永久秀はしばしばその衰退を巧みに利用して自らの勢力を伸ばした冷酷な簒奪者として、後世に長く厳しく指弾され続けてきたのである。もっとも、三好家の急激な弱体化は久秀ただ一人の陰険な企みによるというよりも、長慶の死後に有力な後継者を欠いたことや一族内部の深刻な対立、そして相次ぐ不幸など数多くの要因が複雑に重なり合った結果であったとする冷静な見方も、近年はにわかに根強い。
主家を非道にも乗っ取ったというその評価もまた、将軍殺しや大仏焼きと並んで彼を典型的な梟雄として鮮烈に印象づける物語の重要な一部であり、それが久秀の実像との間にどれほど大きな隔たりを孕んでいるかは、なお慎重に見極めていく必要があるといえるだろう。
織田信長への臣従
1568年、足利義昭を奉じた織田信長が満を持して大軍を率い上洛を果たすと、畿内の勢力図はにわかに一変し、松永久秀は諸勢力に先んじていち早く信長のもとへと参じ、秘蔵の名物茶器をうやうやしく献上してその臣従を誓うという、きわめて現実的な道を選び取った。かつては主家をも凌ぐ勢いを誇った老練な久秀が、新たに現れた圧倒的に巨大な権力の前に自ら進んで膝を屈したのは、苛烈な乱世を生き残るための冷徹な現実主義の帰結にほかならず、彼の並外れて鋭い処世術のありさまを、まことによく示す選択であったといえる。
信長もまた久秀の卓越した実力と大和一国における根強い影響力とを内心で高く評価し、彼に大和の支配をおおむねそのまま委ねるという破格の形で厚く遇したため、たえず緊張を孕みつつも両者の関係は、しばらくのあいだ表向きは良好に保たれることとなったのである。
名物茶器の献上と信長との蜜月
松永久秀が織田信長への臣従の何よりの証として恭しく差し出したのが、名物茶入「つくも茄子」であったと広く伝わり、かねてより茶の湯に人一倍深い関心を寄せていた信長は、この当代一級とうたわれた得難い名器を殊のほか喜んで受け取ったとされているのである。当時、名物と称される茶器はときに一国の価値にも匹敵するとまでいわれるほど特別に重い価値を帯びており、それを贈り贈られるという行為は、単なる財物の授受をはるかに超えた深い政治的な意味を持ち、両者の主従の関係を確かに象徴する荘重な儀礼でもあった。
茶の湯という共通の趣味を介して結ばれた信長と久秀の関係は、権力者どうしの避けがたい緊張を絶えず孕みながらも一時は蜜月と呼ぶにふさわしい親密な時期を確かに迎え、久秀の文化人としての高い価値が、その微妙な立場を陰で支えていたことがよくうかがえる。
一度目の離反
信長への臣従からいくらも経たぬうちに、松永久秀は将軍・足利義昭が信長打倒を各地の有力大名に密かに呼びかけて築き上げた、いわゆる信長包囲網に呼応し、遠く甲斐の武田信玄らの動きと歩調を巧みに合わせて、信長に公然と背く危うい道を選び取ったのである。しかし頼みの綱としていた反信長勢力は、その大黒柱であった武田信玄の思いがけぬ急死などによって次々と脆くも崩れ去り、たちまち孤立無援となった久秀は抗しきれずに信長へふたたび降伏し、居城の多聞山城を明け渡すことで、かろうじて命脈を保ったのである。
一度は堂々と反旗を翻しながらも赦されて生き延びたというこの経緯は、迫りくる危機を巧みに切り抜ける久秀の老練さと、なお彼の並外れた実力を惜しんで生かした信長の冷徹な計算とを同時に浮かび上がらせ、両者の際どい関係の均衡をよく物語っているといえる。
二度目の離反と信貴山城の戦い
1577年、上杉謙信が手取川で織田方の軍勢を打ち破って大いに勢いを得たという情勢のなか、松永久秀は再び信長に公然と背いて居城・信貴山城に立てこもり、揺れ動く天下の趨勢に己の命運を賭けて、二度目の、そして生涯最後となる離反に踏み切ったのである。信長は嫡男・信忠を総大将とする大軍をただちに差し向けて信貴山城を幾重にも厳重に包囲させ、寄せ手の猛烈な攻勢は日を追うごとにいよいよ激しさを増していったが、久秀は最後まで降伏を潔しとせず、あくまで徹底して抗戦する構えを、頑として崩さなかった。
なぜこれほど老練な久秀が勝算のきわめて乏しいこの離反にあえて踏み切ったのかについては今なお諸説が入り乱れており、天下の情勢を読み違えたともいわれ、あるいは武人としての最後の矜持を貫いたためとも語られ、その真意はいまだ深い謎に包まれたままである。
平蜘蛛の茶釜と爆死の伝説
信貴山城の落城がいよいよ目前に迫るなか、信長は松永久秀が生涯をかけて秘蔵してきた名器「古天明平蜘蛛」の茶釜をおとなしく差し出しさえすれば命だけは助けてやろうと持ちかけたが、久秀はこれを頑として拒み通したのだと、後世に長く語り伝えられているのである。絶体絶命に追い詰められた久秀は、天下無双の名物をよりにもよって憎き信長の手には決して渡すまいと固く心に決め、秘蔵の平蜘蛛の茶釜を自ら打ち砕き、あるいは火薬を用いて釜もろとも我が身を爆死させたとも伝わり、まことに壮絶な最期として名高いのである。
もっとも、この劇的な爆死の逸話には多分に伝説的な脚色が含まれているとみられ、実際にはひっそりと自害を遂げたとも城中で討ち取られたともさまざまに諸説があり、後世の劇的な物語がいかにして史実を厚く覆い包んでいくかを示す、まことに格好の好例となっている。
茶人としての松永久秀
松永久秀は当代を代表する一流の茶人でもあり、茶聖・武野紹鴎に連なる茶の湯の由緒ある系譜のただ中で数々の名物茶器を熱心に蒐集し、みずから風雅な茶会をたびたび催しては公家や豪商、文化人と広く深く交わった、まぎれもない当代きっての名だたる数寄者であった。平蜘蛛やつくも茄子といった天下に名高い名器を惜しみなく手中に収めていたというその事実は、彼が単なる血なまぐさい武辺者などではなく、当時の最先端をなす洗練された茶の湯文化のまさに中心に確かに身を置いていたことを、何よりも雄弁に物語っているのである。
荒々しく血なまぐさい戦乱の生涯と、静謐な茶室でひたすら名器を愛でる洗練の極みのごとき繊細な美意識とが、同一人物のうちにさしたる矛盾もなく同居していたというその事実は、戦国という時代の底知れぬ複雑さと、久秀という人物の奥行きを鮮やかに映し出している。
戦国三大梟雄という像の再検討
松永久秀は美濃の斎藤道三や備前の宇喜多直家と並び称されて「戦国三大梟雄」の一人に数えられてきたが、その徹底した悪人像の多くは主に江戸時代以降に成立した軍記物や巷間の逸話によって形作られ、著しく誇張された面が少なくないと近年は考えられている。将軍殺害への直接の関与が実は薄かったことや、大仏殿焼失の真の原因がついに判然としないことなどが実証的に一つ一つ丹念に見直されていくにつれ、彼を単純きわまる悪の権化と決めつけてきた従来の理解には、大きな修正が着実に加えられつつあるのが現状である。
むしろ久秀は、旧来の堅固な秩序が音を立てて崩れ去っていく激しい戦乱の世を、卓越した実力と鋭い才覚のみをひたすら頼りに最後まで生き抜いた一人の合理的な実力者であり、後世が切実に求めた悪役の物語を一身に背負わされた人物であったとする再評価が進みつつある。
後世に残したもの
松永久秀が心血を注いで築いた多聞山城や信貴山城に色濃く見られる高石垣や高層の櫓といった数々の先進的な築城技術は、後の織田信長の安土城をはじめとする壮大な近世城郭へと脈々と受け継がれ、日本の建築史にまぎれもなく確かな足跡を深く刻んだと評価されている。また茶人としての彼が生涯をかけて守り伝えようとした数々の名物茶器や高雅な数寄の精神は、その激烈をきわめた最期の逸話とともに今日まで長く語り継がれ、戦国という時代の意外なほどの文化的な豊かさを現代に伝える、まことに貴重な手がかりの一つとなっている。
梟雄という一面的で単純な評価をはるかに超えて、武と文の双方をともに極めながら苛烈な乱世を颯爽と駆け抜けていった松永久秀の波乱の生涯は、歴史における人物像というものがいかに時代とともに大きく揺れ動くものかを、私たちに今なお静かに問いかけ続けている。

