石田三成 | 豊臣五奉行の一人。高い実務・行政能力で秀吉を支え、関ヶ原の戦いでは豊臣家への忠義を貫いて西軍を指揮

いしだ みつなり

地域近畿
所属勢力・属性豊臣家臣
大名家豊臣
家紋大吉大満大吉
主武器陣太刀・算盤
衣装・甲冑洗練具足
武将タイプ義理・潔癖

石田三成は近江国(現在の滋賀県)の土豪・石田正継の子として生まれた。幼少期、鷹狩りの途中で立ち寄った寺で喉の渇きを覚えた羽柴秀吉に、まずぬるい茶を大椀で、次に少し熱い茶を中椀で、最後に熱い茶を小椀で差し出すという「三献の茶」の機転を見せて見出されたという逸話が広く知られる。以後秀吉の側近として仕え、その卓越した実務能力を高く評価された。

三成は豊臣政権下で五奉行の一人として、太閤検地の実施や兵站の整備、外交文書の作成など、政権を裏方から支える実務全般を担った。文禄・慶長の役では朝鮮出兵の兵站補給を統括し、また堺奉行として貿易の管理にもあたるなど、算盤に象徴されるように緻密な行政手腕を発揮した官僚型の武将であった。

武功派の武将たちとはしばしば対立し、賤ヶ岳七本槍に数えられる福島正則・加藤清正らからは、戦場での武功が少ないにもかかわらず権勢を振るう存在として強い反感を買っていた。この対立は秀吉の死後、豊臣家臣団の分裂という形で表面化し、三成は徳川家康の勢力拡大に強い危機感を抱くようになる。

1600年、家康が会津の上杉景勝討伐に向けて畿内を離れた隙を突き、三成は毛利輝元を総大将に担ぎ、五大老・五奉行の権威を背景に西軍を組織して挙兵。しかし関ヶ原の戦い当日、小早川秀秋の裏切りをはじめとする西軍諸将の日和見・離反が相次ぎ、東軍の勝利に終わった。

敗走した三成は近江の山中に潜伏していたところを捕らえられ、京都・六条河原にて斬首された。刑場に引かれる道中、喉の渇きを訴えた三成が柿を勧められた際、痰の毒になるとして断ったという逸話は、死の間際まで健康に気を配る几帳面な人柄を伝えている。

豊臣家への忠義を貫き通したその生き様は、江戸期には「奸臣」として貶められることも多かったが、近代以降は主家への義理を最後まで守り抜いた忠臣として再評価が進み、今なお関ヶ原の戦いを象徴する人物として広く知られている。

三成の私生活では、正室・皎月院との間に子女をもうけ、また盟友であった大谷吉継との深い友情は特に有名である。ハンセン病を患い視力を失いつつあった吉継のために、茶会で誰も手をつけようとしなかった茶碗をあえて飲み干したという逸話は、身分や外見にとらわれない三成の人柄を象徴する話として広く語り継がれている。

関ヶ原の戦いに先立ち、三成は諸大名への根回しに奔走したが、実務官僚としての手腕には長けていた一方、武功派の武将たちからの人望には乏しく、この人心掌握の弱さが西軍の結束を欠く一因になったとも指摘される。しかし豊臣家への忠義を最後まで貫いたその生き様は、近代以降「義に殉じた武将」として再評価が進み、彼の居城であった佐和山城跡や出身地の近江では、今なお顕彰活動が盛んに行われている。

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