ちょうそかべ もとちか
| 地域 | 四国 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 長宗我部氏 |
| 大名家 | 長宗我部氏 |
| 家紋 | 七つカタバミ |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 黒塗具足 |
| 武将タイプ | 英明・豪快 |
長宗我部元親は土佐国岡豊城主・長宗我部国親の嫡男として生まれた。少年時代は色白で物静かな性格から「姫若子」と揶揄されていたが、初陣となった長浜の戦いで見事な采配と武勇を発揮し、周囲を驚かせて一気に評価を高めた。この初陣を機に「土佐の出来人」と称されるようになる。
父の死後家督を継ぐと、土佐国内の対立勢力を次々と平定し、一領具足と呼ばれる半農半兵の兵制を整備して強力な軍事基盤を確立した。この一領具足は農繁期には田畑を耕し、有事には即座に武装して出陣するという効率的な兵農一致の仕組みであり、長宗我部軍の機動力の源泉となった。
土佐を統一すると、阿波・讃岐・伊予へと侵攻を続け、1585年までに四国全土をほぼ手中に収めるという電撃的な統一を成し遂げる。しかしまさにその直後、豊臣秀吉による四国征伐が開始され、圧倒的な大軍の前に降伏を余儀なくされ、土佐一国のみを安堵される結果となった。
以後は秀吉の九州征伐や小田原征伐にも従軍するが、九州征伐の戸次川の戦いでは嫡男・信親を失うという痛恨の敗北を喫する。愛息の死は元親に深い衝撃を与え、以後は人が変わったように苛烈な統治を行うようになったと伝えられ、後継者問題でも家臣団との軋轢を生むこととなった。
1599年に61歳で没するが、元親が確立した一領具足の兵制や分国法「長宗我部元親百箇条」は、後を継いだ盛親の代まで受け継がれた。しかし関ヶ原の戦いで西軍に与した盛親は改易となり、四国を制した長宗我部氏は元親の死後わずか数年で歴史の表舞台から姿を消すこととなった。

