加藤嘉明 | 賤ヶ岳七本槍の一人。豊臣水軍の主力として活躍し関ヶ原では東軍に属した

かとう よしあき

地域東海・四国
所属勢力・属性賤ヶ岳七本槍
大名家賤ヶ岳七本槍
家紋丸に違い鷹の羽
主武器大槍・陣太刀
衣装・甲冑金箔押具足
武将タイプ沈着・勇猛
目次

加藤嘉明とは

加藤嘉明は、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられ、伊予松山と会津という二つの土地で大領を治めた武将である。七本槍のなかでも加藤清正や福島正則の名が突出しているため、嘉明は影が薄く語られがちである。しかし彼は水軍を率いる海の指揮官であり、松山城を築いた築城者でもあった。性格は「沈勇」と評される。派手さはないが、どんな局面でも動じない。その落ち着きこそが嘉明の武器であった。六十九年の生涯は、七本槍のなかで最も長い。最後まで生き残り、四十万石を得た男の歩みをたどる。

流浪から秀吉のもとへ

嘉明は永禄六年(1563年)、三河国に生まれた。父の加藤教明は松平氏に仕える武士であった。ところが永禄六年から翌年にかけての三河一向一揆で、教明は一揆方に付いたとされる。敗北後、加藤家は三河を追われた。幼い嘉明は父とともに流浪の身となる。生まれた土地も主家も失った出発であった。やがて父子は近江へ流れ、羽柴秀吉の目に留まる。

嘉明は秀吉の弟である羽柴秀長に、次いで秀吉本人に仕えることとなった。秀吉は嘉明の資質を見抜き、小姓として手元に置いた。加藤清正や福島正則と同じく、子飼いとして育てられていく。ただし清正や正則が秀吉の縁者であったのに対し、嘉明にはその縁がない。純粋に能力だけで取り立てられたことになる。

賤ヶ岳七本槍

天正十一年(1583年)、秀吉と柴田勝家が近江賤ヶ岳で激突した。嘉明は二十一歳である。この戦いで嘉明は先陣を切って敵中に突入し、武功を挙げた。戦後、七本槍の一人として顕彰される。顔ぶれは加藤清正、福島正則、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元、そして嘉明である。恩賞として三千石が与えられた。流浪の子が、二十一歳で秀吉直参の武将としての地位を確立したのである。もっとも七本槍という呼称は、秀吉が子飼いの武勇を世に喧伝するための演出でもあった。嘉明の本領は、この後に発揮される。

豊臣水軍の指揮官

嘉明の特色は、水軍を率いたことにある。天正十三年(1585年)の四国攻めで淡路の水軍を任され、以後は海の指揮官としての道を歩む。九州平定でも船団を動かした。天正十四年(1586年)、嘉明は淡路志知に一万五千石を与えられた。同十五年には伊予松前に六万石を得て、瀬戸内の要衝を押さえる。陸戦の武将が多い秀吉子飼いのなかで、海を任される者は限られていた。嘉明はその貴重な一人である。

文禄・慶長の役では、朝鮮水軍との戦いに投入された。日本水軍は李舜臣の率いる朝鮮水軍に苦戦を強いられている。慶長二年(1597年)の漆川梁の戦いでは、藤堂高虎らとともに朝鮮水軍を破った。数少ない日本側の海戦の勝利である。七年に及ぶ戦役を通じて、嘉明は海上輸送と船団運用の実務を身につけた。これは後の領国経営にも生きることになる。

関ヶ原と伊予松山二十万石

秀吉の死後、嘉明は他の七本槍と同様に徳川家康へ接近した。石田三成襲撃事件にも加わっている。慶長五年(1600年)の関ヶ原では東軍に属し、本戦に三千の兵を率いて参加した。嘉明の陣は東軍の中央に置かれ、石田三成隊と正面から渡り合った。黒田長政、細川忠興らとともに笹尾山へ攻めかかっている。また留守中の伊予では、西軍方の毛利勢が上陸を試みた。嘉明の家臣団はこれを撃退し、四国での東軍の地歩を守った。戦後、嘉明は伊予松前六万石から、二十万石へと大幅に加増された。伊予の中枢を委ねられたのである。

松山城と城下町

慶長七年(1602年)、嘉明は松前から居城を移すことを決め、勝山と呼ばれる丘に新たな城の普請を開始した。翌年、嘉明はこの地を「松山」と名づける。今日の愛媛県松山市の地名は、このときに生まれた。松山城は標高百三十メートルほどの山頂に本丸を置き、麓に二之丸・三之丸を配する連立式の平山城である。普請は二十年以上に及んだ。嘉明は完成を見ることなく会津へ移されるが、城の骨格は彼の設計による。

城下町も同時に整備された。街路を碁盤目に割り、商人町を配置し、道後の温泉地とも結ぶ。松山の市街構造はこのとき定まった。松山城は現存十二天守の一つに数えられる。ただし現在の天守は幕末に再建されたもので、嘉明時代のものではない。それでも石垣や縄張りには嘉明の仕事が残る。水軍の将が山城を築いたという点も興味深い。

会津四十万石へ

寛永四年(1627年)、嘉明は突然、陸奥会津四十万石へ移された。会津は蒲生氏郷が築き、その孫の代で断絶した土地である。奥州の要であり、幕府にとって重要な位置にあった。この移封には逸話がある。嘉明を推挙したのは、長年不仲であったとされる藤堂高虎だったというのである。高虎は将軍徳川秀忠に、会津の抑えには嘉明が最適だと進言した。私怨より公務を優先したこの行動に、嘉明は深く感じ入ったと伝えられる。

伊予二十万石から会津四十万石へ。石高は倍増したが、住み慣れた瀬戸内から雪深い奥州への転封である。嘉明は会津でも城下の整備に取り組んだ。ただし在任はわずか四年であった。寛永八年(1631年)、嘉明は江戸において没する。享年六十九。賤ヶ岳七本槍のなかで最も長く生きた一人である。

沈勇の人

嘉明を語るとき必ず引かれるのが、皿の逸話である。嘉明は南蛮渡来の大変珍しい皿を十枚持っていた。ある日、小姓が誤って一枚を割ってしまう。小姓は真っ青になったが、嘉明は残りの九枚を自ら床に投げつけて割り、こう言ったと伝えられる。九枚では揃わぬ、これで気にすることはない、と。物より人を惜しむという姿勢を、言葉ではなく行動で示したことになる。

別の逸話では、家臣が失態を犯した際も声を荒らげず、静かに処理したという。嘉明が「沈勇の士」と評された所以である。派手な武勇伝が少ないのは、彼が騒がない人物だったからでもある。清正や正則の逸話が生き生きしているのと好対照をなす。ただし、決して温厚一辺倒ではない。藤堂高虎とは長く反目し、家中の統制には厳しさも見せている。

七本槍のその後

賤ヶ岳七本槍の七人は、その後まったく異なる道をたどった。加藤清正は肥後五十二万石を得たが、五十歳で没し、子の代で改易される。福島正則は安芸四十九万八千石から、城の無断修築を咎められて改易された。片桐且元は豊臣家の家老として大坂の陣の交渉に苦しみ、脇坂安治は伊予大洲へ、平野長泰と糟屋武則は小大名または旗本にとどまった。そのなかで嘉明は、二十万石から四十万石へと石高を増やしながら、天寿を全うしている。

もっとも加藤家も安泰ではなかった。嫡男の加藤明成の代に家中騒動が起こり、寛永二十年(1643年)に会津四十万石を返上する。その後、加藤家は石見吉永に一万石を与えられて存続した。改易を免れたのは、嘉明の功績が考慮されたためともいわれる。武功で身を起こした世代が、平時の統治で次々につまずいていく。七本槍のその後は、時代の転換をそのまま映している。

藤堂高虎との関係

嘉明と藤堂高虎は、ともに伊予に領地を持ち、ともに水軍を率いた。当然、競合する立場にある。二人は長く不仲であったと伝えられる。朝鮮出兵での戦功をめぐる争いが原因ともいわれるが、詳細は定かでない。それでも高虎は、会津の抑えとして嘉明を推した。理由を問われた高虎は、嘉明は信頼できる人物だと答えたという。

この逸話が事実かどうかは検証しがたい。しかし江戸期を通じて語り継がれたことには意味がある。私情を排して人材を評価するという武士の理想を、この二人の関係に託して語りたい人々がいたということである。嘉明もまた、高虎の推挙を知って恨みを水に流したとされる。互いに認め合っていた、という結末が好まれた。

嘉明ゆかりの地をたどる

愛媛県松山市の松山城は、嘉明が築いた城である。ロープウェイで本丸まで上れば、瀬戸内と松山平野を一望できる。城下には道後温泉があり、嘉明の時代から城下町と一体で栄えた。松山という都市の設計が今も生きている。松山市の松前町(旧松前城跡)は、嘉明が最初に拠点とした地である。海に近く、水軍の将にふさわしい立地であった。福島県会津若松市には、嘉明とその子の明成が手を入れた鶴ヶ城が残る。天守の再建は蒲生時代の様式を基本としている。嘉明の墓は東京都台東区の寺にあり、松山市内にも供養の地が残る。

後世の評価

嘉明の評価は、七本槍のなかでは長く控えめであった。逸話に乏しく、大事件の主役にもならなかったからである。しかし近年は、松山という都市の創設者として、また水軍の指揮官としての側面が注目されている。海を任される武将は限られる。船団を編成し、潮を読み、上陸戦を組み立てる能力は、陸戦とは別の専門性を要した。また、二十万石から四十万石へと石高を伸ばし、しかも改易されずに天寿を全うした。

これは同世代の武将のなかでも際立った成果である。皿を割った小姓の逸話が四百年語り継がれてきたのも、彼の人柄が愛されてきたからであろう。派手ではないが、着実に積み上げる。加藤嘉明という武将は、そういう生き方の代表として記憶されてよい。

戦国の水軍という世界

嘉明が身を置いた水軍という分野は、陸戦とはまったく別の技術体系を持っていた。潮の流れ、風向き、島影の使い方。瀬戸内海は潮流が複雑で、地の利を知る者と知らぬ者では戦う前から差がついた。もともと瀬戸内には村上水軍をはじめとする海の領主が割拠していた。彼らは通行料を取り、海の道を実質的に支配していた。秀吉は天下統一の過程で海賊停止令を出し、こうした自立的な海の勢力を解体していく。かわりに大名の指揮下で編成されたのが、嘉明らの率いる水軍である。

つまり嘉明は、海の武力が私的な支配から公的な軍事組織へ組み替えられる、その転換点に立っていた。朝鮮出兵では、この新しい水軍が李舜臣という卓越した指揮官と対決することになる。日本水軍が苦戦したのは、編成が新しかったことも一因であろう。嘉明は敗北も勝利も経験した。漆川梁での勝利は、日本水軍が組織として機能した数少ない例である。

松山という名前

松山という地名は、嘉明が名づけたものである。それ以前、この地は勝山あるいは味酒郷などと呼ばれていた。由来については諸説あるが、松の茂る山という素直な景観描写とみるのが一般的である。地名を新たに定めるという行為は、その土地を自分の設計で作り直すという宣言でもある。蒲生氏郷が黒川を若松と改めたのと同じ発想である。嘉明は城を築き、町を割り、名を与えた。わずか二十五年の在任だが、都市の骨格はこのとき決まった。明治以降、松山は正岡子規や夏目漱石によって文学の町としても知られるようになる。その舞台となった城下町を設計したのが嘉明であった。

伊予という土地

嘉明が二十五年を過ごした伊予は、瀬戸内海に面し、四国と本州を結ぶ海路の要衝である。中世には河野氏が伊予を治め、村上水軍と結んで海上勢力を保っていた。豊臣政権の四国平定によってこの構造は解体される。嘉明が伊予松前に入ったのは、その直後である。海の民の伝統が残る土地に、新しい支配を根づかせる仕事であった。伊予には他にも藤堂高虎が今治を、小川祐忠が今治周辺を、そして宇和島には富田信高がと、複数の大名が並立していた。

関ヶ原の後、嘉明は伊予の中枢である松山二十万石を得る。四国における豊臣系大名の代表格となったのである。松山では新田開発や港湾の整備も進めた。瀬戸内の物流を押さえるという発想は、水軍の将らしいものであった。

武功の世代の生き残り方

嘉明が同世代の武将と異なるのは、時代の変化に静かに適応した点である。清正は熊本城と治水で名を残したが五十歳で没し、正則は法度を軽んじて改易された。嘉明は目立たぬまま、確実に石高を伸ばしている。その秘訣は、幕府に対して隙を見せなかったことにあるだろう。城の普請も、家中の統制も、手続きを踏んで進めた。また嘉明は、政争に深入りしなかった。

武断派の一員として三成襲撃には加わったが、以後は目立つ動きをしていない。沈勇と評された気質は、平時においてこそ強みとなった。動じないとは、余計なことをしないということでもある。六十九年を生き、四十万石で世を去る。戦国生まれの武将としては、これ以上ない着地であった。

会津での四年

六十五歳で会津に移った嘉明にとって、それは最後の任地であった。会津は蒲生氏郷が礎を築き、上杉景勝が一時治め、再び蒲生家に戻り、そして断絶した土地である。領主が短期間で入れ替わり、統治は安定していなかった。嘉明は鶴ヶ城の修築に着手し、城下の再整備を進めた。伊予で培った町割りの経験が、ここでも活かされている。また、会津は幕府にとって奥州の押さえである。伊達政宗をはじめとする東北の大名を睨む位置にあり、任される者には信頼が求められた。

嘉明が選ばれたのは、豊臣恩顧でありながら幕府に忠実であるという評価によるものであろう。しかし在任は四年で終わる。寛永八年、嘉明は江戸で没した。会津での仕事は道半ばであった。跡を継いだ加藤明成は父ほどの器量を欠き、家老の堀主水との対立から会津騒動を引き起こす。加藤家は会津を去ることとなった。

嘉明を支えた家臣

加藤家の家臣団は、流浪の身から成り上がった主君のもとに集まった、出自の多様な集団であった。譜代の家柄を持たない嘉明にとって、家臣は自ら見出して育てるほかない。能力本位の登用が徹底されたのは、この事情による。佃十成は関ヶ原の際、留守を預かって毛利勢の上陸を撃退した武将である。三津浜での夜襲によって数倍の敵を退けた。

この一戦がなければ、伊予は西軍の手に落ちていた可能性がある。嘉明が本戦で戦えたのは、こうした留守居の働きがあったからである。皿の逸話に象徴されるように、嘉明は家臣の失敗に寛容であった。人材を集めにくい立場だからこそ、いったん抱えた者は大切にしたのであろう。その一方で、家中の規律には厳格であった。寛容と厳格の使い分けが、寄せ集めの家臣団をまとめる術であった。

三河を追われた少年が、瀬戸内の海を任され、伊予に城と町を築き、奥州の要を預かって世を去る。加藤嘉明の生涯は、戦国という時代が用意した最も大きな階段の一つであった。松山城の天守から瀬戸内を眺めれば、水軍の将がなぜこの丘を選んだのかが、少しだけ分かる気がする。

当図鑑内の関連武将

嘉明を取り立てた主君が豊臣秀吉、同じ賤ヶ岳七本槍が加藤清正福島正則、この戦いの相手が柴田勝家である。伊予で競い、後に会津へ推挙した藤堂高虎、会津の前領主である蒲生氏郷、関ヶ原で対峙した石田三成、そして加増を与えた徳川家康。あわせてご覧いただきたい。

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