あさの ながまさ
| 地域 | 近畿・関東 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 豊臣家臣 |
| 大名家 | 豊臣 |
| 家紋 | 丸に違い鷹の羽 |
| 主武器 | 太刀・行政書状 |
| 衣装・甲冑 | 重臣具足 |
| 武将タイプ | 五奉行筆頭・厳格 |
豊臣五奉行の筆頭。太閤検地や行政実務を完璧に遂行し豊臣政権の財政・統治を支えた。
- 天文16年(1547年)生まれ。初名は長吉。浅野長勝の養子となり、その娘・ややを妻とした。ややは北政所(ねね)の妹にあたり、秀吉とは義兄弟の間柄
- 京都奉行、若狭小浜城主を経て甲斐の領主となり、秀吉の晩年には五奉行の一人として政権の実務を担った
- 秀吉の死後は家康暗殺計画の疑いで謹慎。関ヶ原では東軍につき、常陸真壁5万石で隠居。慶長16年(1611年)没
豊臣五奉行の筆頭・浅野長政
浅野長政(あさの ながまさ)は、天下人・豊臣秀吉に仕えた武将で、豊臣政権の実務を担った「五奉行」の筆頭に数えられた重臣です。秀吉とは相婿(妻同士が姉妹)の関係にあり、身内として絶大な信頼を受けました。
秀吉の縁戚として
浅野長政の妻と、秀吉の正室・ねね(北政所)は姉妹であり、浅野長政は秀吉のきわめて近い縁戚でした。この結びつきもあって、長政は豊臣政権の中枢で重用され、政務の要職を歴任します。
太閤検地と行政
浅野長政は、豊臣政権の一大事業であった太閤検地をはじめ、各種の行政実務を的確に遂行しました。全国の田畑を調査し、年貢の基準を定めるこの事業は、天下統一後の統治の根幹をなすものでした。
豊臣政権の屋台骨
浅野長政は、五奉行の筆頭として豊臣政権の財政と統治を支える屋台骨でした。秀吉の死後は、その混乱のなかで徳川家康にも接近し、浅野家は江戸時代を大名として存続します。浅野長政の生涯は、五奉行の筆頭として太閤検地と行政を担い、豊臣政権を支えた重臣の姿を今に伝えています。
甲斐の領主と石田三成との対立
文禄2年(1593年)、長政は子の浅野幸長とともに甲斐国を与えられた。甲府城(舞鶴城公園)の築城は、羽柴秀勝・加藤光泰に続いて浅野父子の時代に進められ、城跡からは浅野家の家紋をつけた瓦が見つかっている。
同じ奉行でも、長政は石田三成とは折り合いが悪く、小西行長とも不仲だったと伝わる。この対立は、秀吉の死後に豊臣家臣団が東西に分かれていく伏線の一つになった。
謹慎から関ヶ原へ ― 家を残した決断
慶長4年(1599年)、長政は徳川家康の暗殺を企てたという嫌疑をかけられ、武蔵府中で謹慎した。家督は幸長に譲っている。翌年の関ヶ原の戦いでは東軍につき、長政自身は江戸城の留守居を務め、幸長が本戦に加わった。
戦後、幸長は紀伊和歌山37万石余りの大名となる。長政は慶長11年(1606年)に常陸真壁5万石を隠居料として与えられ、慶長16年(1611年)に65歳で没した(亡くなった場所は江戸とも真壁ともいわれる)。浅野家はその後、安芸広島藩として江戸時代を通じて続き、分家からは赤穂藩も出ている。
浅野長政をめぐる人物
ゆかりの地
- 甲府城跡(舞鶴城公園)(山梨県甲府市):浅野父子の時代に築城が進められた。浅野家の家紋瓦が出土している
- 真壁の町並み(茨城県桜川市):隠居領。桜川市は、真壁の町割りは江戸初期の浅野氏の時代に完成したと紹介している
- 高野山悉地院(和歌山県高野町):墓所。真壁の伝正寺にも墓があるとされる
この人物をもっと知る本
- 【人物事典】黒田基樹・柴裕之編『戦国武将列伝 別巻2 豊臣編』(戎光祥出版):「浅野長政・幸長」の章を収録。豊臣政権を支えた人々を最新研究で知る











































