かたぎり かつもと
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 豊臣家臣 |
| 大名家 | 豊臣 |
| 家紋 | 対い雀 |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 黒漆塗具足 |
| 武将タイプ | 忠義・苦心 |
賤ヶ岳七本槍の一人。豊臣家の重臣として徳川との和睦交渉に奔走した苦労人。
- 弘治2年(1556年)、近江国浅井郡須賀谷(滋賀県長浜市)に生まれる。浅井氏の旧臣で、秀吉に仕えて賤ヶ岳七本槍の一人となった
- 秀吉の死後は豊臣秀頼の傅役、豊臣家の家老として大坂城を支え、徳川家との交渉役を担った
- 慶長19年(1614年)の方広寺鐘銘事件で裏切りを疑われ、大坂城を退去。大坂の陣の直後、元和元年(1615年)に没した
賤ヶ岳七本槍から豊臣の重臣へ
片桐且元(かたぎり かつもと)は、近江の出身で、羽柴秀吉に若くから仕えました。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで武功を挙げた「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられ、以後は武勇だけでなく実務にもすぐれた官僚型の武将として、豊臣政権を支える重臣へと成長していきます。
豊臣秀頼の傅役として
秀吉の死後、且元は幼い豊臣秀頼の傅役(もりやく)・家老として、豊臣家の屋台骨を背負う立場となりました。徳川家康が力を強めていくなか、豊臣家をどう存続させるか——その難しい舵取りが、且元の双肩にのしかかります。
方広寺鐘銘事件と苦悩
慶長19年(1614年)、豊臣家が再建した方広寺の鐘の銘文をめぐって、家康が「国家安康」の文字を問題視する方広寺鐘銘事件が起こります。且元は徳川と豊臣の板挟みとなって和解に奔走しますが、かえって豊臣方から内通を疑われ、ついに大坂城を退去して徳川方につくことになりました。忠義を尽くしながら主家に容れられなかった且元の苦悩は、豊臣家滅亡の悲劇を象徴しています。
弟・片桐貞隆と片桐家
且元は大坂の陣ののち、まもなく世を去りました。弟の片桐貞隆は大和小泉に所領を得て、片桐家は近世大名・旗本として存続します。豊臣の忠臣でありながら、その滅亡を見届ける役回りとなった且元の生涯は、天下が豊臣から徳川へと移る時代の縮図でした。
浅井の旧臣から賤ヶ岳七本槍へ
且元は浅井氏の家臣・片桐直貞の長男として、近江国浅井郡須賀谷に生まれた。主家の浅井長政が滅んだのち秀吉に仕え、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで武功を挙げて、福島正則・加藤清正らとともに「賤ヶ岳七本槍」に数えられた。
秀頼を支えた家老
慶長3年(1598年)、秀吉は死を前に、幼い秀頼の傅役の一人に且元を指名した。慶長6年(1601年)には小出秀政とともに豊臣家の家老となり、大和竜田(最終的に4万石)を領した。
且元は豊臣家の実務を取り仕切るとともに、力を強める徳川家康との交渉役を務めた。京都の方広寺の大仏の再建も、且元が奉行として進めた事業である。
方広寺鐘銘事件と大坂城退去
慶長19年(1614年)、再建された方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字が、家康を呪い豊臣を祝うものだと問題にされた。且元は駿府へ弁明に赴き、事態を収めるために、秀頼が駿府・江戸へ参勤する、淀殿が人質として江戸に下る、秀頼が大坂を出て国替えする――のいずれかを受け入れるよう大坂に持ち帰った。
しかし大坂城内ではこれが徳川寄りの裏切りと受け取られ、且元の命が狙われる事態となる。10月1日、且元は弟の貞隆らとともに大坂城を出て、摂津の茨木城に入った。豊臣家は交渉の窓口を失い、大坂の陣へと突き進んでいく。
且元は大坂夏の陣で豊臣家が滅んだ直後の元和元年(1615年)5月28日に亡くなった。病死とされるが、ほかの説もある。
片桐且元をめぐる人物
ゆかりの地
- 須賀谷(滋賀県長浜市):且元の生まれた地
- 方広寺(京都市東山区):鐘銘事件の舞台
- 茨木城跡(大阪府茨木市):大坂城を出た且元が入った城
- 大徳寺玉林院(京都市北区):墓所。肖像画も伝わる
この人物をもっと知る本
- 【一般書】黒田基樹『羽柴家崩壊 ― 茶々と片桐且元の懊悩』(平凡社):方広寺鐘銘事件から大坂の陣へ、豊臣家が崩れていく過程を且元と茶々の視点で読み解く











































