しまづ よしひさ
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 島津氏 |
| 大名家 | 島津氏 |
| 家紋 | 丸に十の字 |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 黒漆塗具足 |
| 武将タイプ | 老練・威厳 |
島津義久とは
島津義久は、戦国時代の薩摩に生まれ、島津氏第16代当主として九州のほぼ全域を制圧寸前まで導いた名将である。三州統一を成し遂げ、大友や龍造寺といった強敵を次々と打ち破り、南九州から一大版図を築き上げた。弟である島津義弘、島津歳久、島津家久と固く結束し、いわゆる島津四兄弟の総帥として一族を率いた。武勇よりも大局を見据える差配に長け、辛抱強く家を守り抜いた点に、この人物の真価が宿ると伝わる。
豊臣秀吉に降ったのちも剃髪して龍伯と号し、島津家の実権を握り続けた。関ヶ原の動乱を乗り越え、近世大名としての島津家を存続させた立役者であり、薩摩の礎を築いた太守として名高い。
出自と島津氏の系譜
島津義久は、天文2年(1533年)に薩摩の伊作城で生まれたと伝わる。父は島津氏の勢力を大きく伸ばした島津貴久であり、祖父には「島津中興の祖」と称えられる島津忠良、すなわち日新斎がいた。島津氏は鎌倉時代以来、薩摩・大隅・日向の三国に守護職を有する名門であった。しかし戦国期には一族の分裂や国人衆の割拠が進み、宗家の支配は大きく揺らいでいたのである。
貴久と忠良の代に宗家の権威は回復へと向かい、義久はその再興の途上に生まれ育った。幼少より聡明とされ、一族再統合の悲願を背負う嫡男として、大きな期待を寄せられて成長したという。
家督相続と祖父・忠良の期待
祖父の島津忠良は、義久を評して「三州の総大将たるの材徳、自ら備わる」と語ったと伝わる。四人の孫それぞれの資質を見抜き、義久には全体を束ねる器量が宿ると見定めていたのである。永禄9年(1566年)、父・島津貴久の隠居にともない、義久は家督を継いで島津氏第16代当主となった。ここから南九州を舞台とした、島津氏の急速な勢力拡大の時代が幕を開けることになる。
家督を継いだ義久は、自ら前線で槍を振るう型の武将ではなかった。むしろ弟たちに軍事を委ね、みずからは戦略の立案と領国の統治に徹する、総帥としての役割を明確に自覚していたと伝わる。
薩摩統一への歩み
当主となった義久がまず取り組んだのは、薩摩国内に残る敵対勢力の平定であった。父祖の代から続く国人衆との抗争を引き継ぎ、粘り強く軍事と調略を重ねて一国の統一を進めていった。元亀元年(1570年)ごろまでに、義久は薩摩の統一をほぼ完成させたとされる。強固な家臣団と四兄弟の連携を背景に、島津氏は南九州における最有力の勢力へと着実に成長を遂げていった。
この薩摩統一の過程で、義久は弟たちに前線の指揮を大きく委ねた。弟である島津義弘や島津家久が各地で武功を重ね、義久がそれを束ねるという役割分担が、しだいに形づくられていったのである。
三州統一の完成
薩摩を固めた義久は、次に大隅国の平定へと乗り出した。天正元年(1573年)に禰寝氏を、翌年には肝付氏や伊地知氏を相次いで帰順させ、長年抵抗を続けた大隅の諸勢力をほぼ従えることに成功した。残る日向国では、伊東氏が大きな勢力を保っていた。天正4年(1576年)、義久は伊東方の高原城を攻略し、当主の伊東義祐は豊後の大友宗麟のもとへ亡命を余儀なくされ、日向の大半が島津氏の手に落ちた。
こうして薩摩・大隅・日向のいわゆる三州が、義久のもとにほぼ統一された。祖父・忠良が思い描いた三州統一の悲願は、孫の代に至って現実のものとなり、島津氏は九州南部に強大な版図を築くこととなった。
木崎原の戦いと弟・義弘
三州統一の途上には、数々の激戦があった。なかでも元亀3年(1572年)の木崎原の戦いは、島津氏の勢いを決定づけた一戦として知られ、弟である島津義弘がその主役を担ったと伝わる。この戦いで義弘は、わずか300ほどの寡兵を率い、伏兵を巧みに配して数倍の伊東軍を壊滅させたという。大将格を含む多数を討ち取り、日向の伊東氏に回復しがたい打撃を与えたと語り継がれている。
木崎原の勝利は、のちに「九州の桶狭間」とも称された。義久が全体を統べ、義弘が戦場で武名を轟かせるという島津の役割分担は、この頃すでに鮮やかな成果を上げていたのである。
耳川の戦い
天正6年(1578年)、九州最大の勢力を誇った豊後の大友宗麟が、大軍を率いて日向へ侵攻した。日向をめぐる島津氏と大友氏の対決は、九州の覇権を左右する一大決戦へと発展していった。大友軍はおよそ4万3千と伝わる大軍で、日向の高城を包囲した。義久はみずから軍を率いて出陣し、寡兵ながら地の利を活かし、得意の戦法を駆使して迎え撃つ構えを整えたのである。
高城川のほとりで両軍は激突し、島津軍は大友の大軍を川辺へと追い込んで壊滅させた。田北鎮周や角隈石宗ら名だたる将を討ち取り、大友氏の九州支配に決定的な打撃を与える大勝利をおさめたと伝わる。この耳川の戦いによって、九州の勢力図は大きく塗り替えられた。長く九州に君臨した大友宗麟は衰退へと転じ、島津氏はいっきに九州統一へと近づく足がかりを得たのである。
釣り野伏せという島津の兵法
島津氏が得意とした戦法に、「釣り野伏せ」と呼ばれる伏兵戦術がある。中央の部隊がわざと退いて敵を誘い込み、左右に潜ませた伏兵が三方から一挙に攻めかかるという、大胆かつ緻密な戦い方であった。この戦法は寡兵で大軍を破るのに適しており、耳川の戦いをはじめ、島津氏の数々の勝利を支えたと伝わる。統率の乱れた敵は包囲のなかで総崩れとなり、しばしば大将までもが討ち取られたのである。
釣り野伏せを成立させるには、退く部隊の胆力と、伏兵の周到な連携が欠かせない。四兄弟の固い結束と精強な家臣団があってこそ機能した戦法であり、島津氏の強さの象徴として語り継がれている。
九州統一への道
耳川の勝利ののち、義久はさらに北九州へと勢力を伸ばしていった。衰えた大友氏を圧迫する一方、肥前で急速に台頭した龍造寺隆信とも、やがて雌雄を決することになっていく。島津氏は肥後や筑後へも影響力を広げ、九州の諸勢力を次々と従えていった。義久のもとで、島津氏はまさに九州のほぼ全域を掌中に収めんとする、破竹の勢いを示していたのである。
弟たちはそれぞれの戦線で武功を重ねた。島津義弘、島津歳久、島津家久が各地で活躍し、義久がその全体を統べるという体制が、島津氏のとどまるところを知らぬ進撃を支え続けていた。
沖田畷の戦いと弟・家久
天正12年(1584年)、肥前の龍造寺隆信が島原半島へ大軍を差し向けた。これに対し義久は、末弟である島津家久を総大将として派遣し、有馬晴信と結んで龍造寺軍を迎え撃たせた。沖田畷と呼ばれる湿地帯の狭い道に、家久は龍造寺の大軍を巧みに誘い込んだ。3千ほどの寡兵ながら伏兵を活かし、身動きのとれなくなった敵に猛攻を加え、総大将の龍造寺隆信を討ち取る大殊勲を挙げた。
隆信を失った龍造寺氏は急速に衰え、島津氏の九州制覇はいよいよ現実味を帯びた。軍略の天才とうたわれた島津家久の面目躍如たる勝利であり、四兄弟の強さをあらためて天下に示す一戦となった。
豊臣秀吉の九州征伐
九州統一を目前にした島津氏の前に、天下人となった豊臣秀吉が立ちはだかった。秀吉は大友宗麟の救援要請を受け、私戦の停止を命じる惣無事を突きつけたが、義久はこれに従わず北上を続けた。天正15年(1587年)、秀吉はみずから10万を超える大軍を率いて九州へと下向した。豊臣方の圧倒的な物量の前に、島津軍は各地で敗退を重ね、その勢力は急速に南へと押し戻されていった。
弟の島津家久が豊後で豊臣方に一矢報いる場面もあったが、大勢を覆すには至らなかった。膨れ上がる中央政権の力の前に、九州統一という島津の悲願は、ついに手が届く寸前で潰えることとなった。
降伏と剃髪・龍伯
抗戦の望みが絶たれると、義久は決断を下した。鹿児島へ戻ると剃髪して出家し、名を龍伯と改め、みずから恭順の意を明らかにして豊臣方との和睦の道を探ったのである。天正15年(1587年)、義久は川内の泰平寺で秀吉と会見し、正式に降伏した。秀吉はこれを許し、義久には薩摩、弟の島津義弘には大隅などが安堵され、島津氏は大名として存続を許されることとなった。
全面的な滅亡を避け、家名と領国の中核を守り抜いたこの降伏は、義久の現実を見据えた政治判断の賜物であった。以後、龍伯と号した義久は、剃髪の身ながら島津家の実権を握り続けていく。
豊臣政権下の両殿体制
降伏後の島津氏では、豊臣政権が弟の島津義弘を事実上の当主として遇する動きを見せた。朝鮮への出兵をはじめ、対外的な軍役の窓口は義弘が担い、中央との関係を一手に引き受けていったのである。一方で、島津領内における実権は依然として龍伯こと義久が握り続けた。義久は富隈城へと移りながらも、家臣団や領国支配の要を離さず、当主・義弘と並び立つ形で家を差配していった。
このように義久と義弘が並んで家を率いる体制は、のちに「両殿体制」と呼ばれる。中央政権と巧みに向き合いつつ、島津家の自立性を守り抜くための、兄弟による絶妙な役割分担であったと伝わる。
関ヶ原の戦いと国元の判断
慶長5年(1600年)、天下を二分する関ヶ原の戦いが起こると、京にあった弟の島津義弘は西軍に身を投じた。しかし国元の義久は動かず、軍勢を大挙して送り込むことはなかったと伝わる。少数の兵で戦った義弘は、西軍の敗北のなか、敵中を突破する壮絶な退却で薩摩へ帰り着いた。この「島津の退き口」は語り草となったが、島津家そのものは西軍の中心とは一線を画す立場を保った。
国元を静観させた義久の慎重な構えは、敗戦後の島津家の命運を大きく左右した。全軍を挙げて西軍に加担しなかったことが、のちの徳川方との交渉において、家の存続を可能にする余地を残したのである。
徳川家康との講和交渉
関ヶ原の後、島津氏は敗軍の側に立ちながらも、徳川家康との粘り強い講和交渉に臨んだ。義久は病や路銀の不足などを理由に上洛を先延ばしにし、容易には屈しない姿勢を貫いたと伝わる。2年ほどにわたる駆け引きの末、慶長7年(1602年)、義久は甥で養嗣子の忠恒を上洛させ、家康への服従を示した。これによって島津氏は所領を安堵され、薩摩や大隅などの本領を守り抜くことに成功した。
敗者でありながら旧領をほぼそのまま保った例はまれであり、この交渉は島津外交の白眉とされる。焦らず粘り、相手の譲歩を引き出す義久の老練な手腕が、近世島津家の礎を固める結果につながった。
家督相続と近世島津家の礎
義久には男子がなかったため、弟である島津義弘の子・忠恒を養嗣子に迎えた。そして三女の亀寿を忠恒に娶わせ、後継者として定めることで、宗家の血統と家督の継承を安定させようと図ったのである。慶長7年(1602年)ごろ、義久は当主の座を正式に忠恒へと譲り、隠居の身となった。とはいえ隠居後も幕府と直に書状を交わすなど、その権威は衰えず、島津家に絶大な影響力を保ち続けたと伝わる。
慶長9年(1604年)、義久は大隅の国分に城を築いて移り住んだ。晩年は領国の経営や産業の振興に心を配り、近世大名としての薩摩藩の土台を、みずからの手で入念に築き固めていった。
四兄弟の結束
島津氏の躍進を語るうえで欠かせないのが、義久を筆頭とする四兄弟の固い結束である。祖父・忠良は、義久には総大将の徳が、それぞれの弟には武と智と軍略の才が備わると見抜いていたと伝わる。弟の島津義弘は雄々しい武略をもって前線を駆け、島津歳久は先々の利害を見通す智計に優れ、島津家久は軍法と戦術に妙を得たとされる。四人がそれぞれの持ち味を発揮し、互いを支え合ったのである。
総帥である義久が全体の舵を取り、三人の弟が武略で応えるという関係は、まれに見る一族の団結を生んだ。この四兄弟の結束こそが、島津氏を九州統一の一歩手前まで押し上げた最大の原動力であった。
人物像と教養
義久は武辺一辺倒の武将ではなく、深い教養を身につけた文化人でもあった。歌道の秘伝である古今伝授を細川幽斎から受け、公家の近衛前久とも親交を結ぶなど、中央の文化にも通じていたと伝わる。政治の面では民生を重んじ、城門の質素さを問われた際に、民が疲弊している方が問題だと答えたと伝わる。派手さを避け、領民の暮らしと国の安定を第一に考える為政者であったといえる。
また義久は、悪しき人物の肖像を掲げて日々戒めとし、自らの振る舞いを律したとも語られる。辛抱強く、慎み深く、大局を見失わないその人柄が、幾多の苦境を乗り越える力の源泉となっていた。
文禄慶長の役と島津の武名
豊臣政権に降ったのち、島津氏は文禄・慶長の役、すなわち朝鮮への出兵に軍役として動員された。国元にあった義久は、兵糧や人員の手配、そして領国の統治を差配し、海を渡った弟の島津義弘を後方から支える立場を担ったと伝わる。慶長の役では、島津義弘が泗川の戦いにおいて、わずかな手勢をもって数万にのぼる明と朝鮮の大軍を打ち破る大勝を挙げたと語り継がれている。島津勢の凄まじい勇猛ぶりは、敵方からも鬼神のごとく恐れられたという逸話が残されている。
遠い異国での戦いに際しても、義久は国元から絶えず兵糧や兵を送り続け、島津の軍事力を陰から支え抜いた。前線を弟が駆け、国元を兄が固めるというこの役割分担は、対外の大戦においてもいかんなく発揮されたのである。
領国支配と外城の仕組み
義久の時代の島津氏は、広大な三州を治めるために、独自の地方支配の仕組みを整えていった。要所に置いた拠点へ武士団を住まわせ、在地の守りと農政の両方を担わせるこの方式は、のちの薩摩藩を特徴づける外城の制度へとつながっていったと伝わる。多くの武士を土地に根づかせて養うこの体制は、島津氏の並外れた動員力を支える基盤となった。いざ戦となれば各地から精強な兵が続々と集まり、四兄弟の巧みな采配のもとで、一つの強固な軍勢としてまとまっていったのである。
義久は検地や年貢の整備にも細やかに意を用い、乱世のただなかにあっても領国の経営を決して怠らなかった。武勇で名高い島津の強さの陰には、こうした地道で堅実な内政の積み重ねがあったことを、見落としてはならないだろう。
逸話と人物相関
義久の采配は、敵からも高く評価された。徳川家康は義久を評して、みずから手を汚さずに勝利を得る姿は、楠木正成や源頼朝にも並ぶ大将の道であると感嘆したと伝わる。生涯の宿敵といえるのが、耳川で破った豊後の大友宗麟である。九州の覇権をめぐって激突した両雄の対決は、耳川の戦いを境に明暗を分け、島津氏の飛躍と大友氏の衰退を決定づけることとなった。
そして義久を語るうえで欠かせないのが、島津義弘、島津歳久、島津家久という三人の弟の存在である。武の義弘、智の歳久、軍略の家久を束ね、辛抱の総帥として家を守った点に、義久の真骨頂があった。慶長16年(1611年)、義久は国分の城で79年の生涯を閉じた。世の中の米と水とをくみ尽くしつくしてのちは天つ大空、という辞世を残したと伝わり、乱世を生き抜いた太守はその名を後世に刻んだ。

