九州征伐をわかりやすく解説|秀吉はなぜ島津義久を降したのか — 根白坂の戦いと豊臣秀長

九州征伐(根白坂の戦い)を描いたイラスト。日向の丘に築いた防塁で、火縄銃と槍を構えて島津軍の攻めを受け止める豊臣方の軍勢。夜明けの光と遠景の戦塵。
目次

九州統一を目前にした島津氏

戦国時代も終盤にさしかかった1586年の九州では、薩摩から興った島津氏が破竹の勢いで北へと版図を押し広げ、名門大友氏を豊後一国にまで追い詰めて、いままさに島全体の統一を成し遂げようとする緊迫の局面を迎えていたのである。

しかし、この島津氏の飛躍を最後の一歩で許さなかったのが、畿内を制してすでに天下人への道を歩みつつあった豊臣秀吉であり、両者の衝突は九州の運命のみならず、天下統一そのものの行方を大きく左右する一大決戦へと発展していくことになる。

島津四兄弟による九州席巻

島津氏の急激な伸張を支えたのは、当主として一族を束ねた長兄義久を筆頭に、勇猛で鳴らした次弟の義弘、智略に長けた三弟の歳久、そして稀代の戦上手として恐れられた四弟の家久という、結束の固い四兄弟の存在であったと伝わる。

彼らは長兄義久のもとで巧みに役割を分かち合いながら各地を転戦し、旧来の国人衆を次々に従え、あるいは戦って打ち破っていき、南九州の三州を足がかりに肥後・筑後から豊後方面へと勢力圏を急速に押し広げていったのである。

島津氏の強さの秘密 — 釣り野伏せ

島津軍が九州の各地でおびただしい強敵を破り、席巻を果たしえた最大の要因のひとつが、「釣り野伏せ」と呼ばれる特有の野戦戦法にあったと伝わり、これは中央の部隊が偽りの退却を演じて敵をおびき寄せる巧妙な策であった。

誘い出された敵が勢いに乗って深追いしてくると、あらかじめ左右に潜ませておいた伏兵が一斉に立ち上がり、退いていた中央の兵も反転して、三方から敵を包み込むように包囲し、これを一挙に殲滅する仕組みになっていたのである。

この釣り野伏せは、大友を破った耳川、龍造寺隆信を討ち取った沖田畷、四国勢を壊滅させた戸次川といった数々の合戦で猛威を振るい、島津方が寡兵をもって大敵を破る、まさに恐るべき勝ちパターンとして知られていった。

精強な兵と四兄弟の結束

こうした高度な戦法が繰り返し成立した背景には、偽りの退却という一歩間違えれば総崩れを招きかねない危険な役割を、命令のままに冷静にやりとげる、薩摩の将兵の並外れた精強さと規律の高さがあったといえるだろう。

加えて、当主義久を中心とした四兄弟が互いに深く信頼し合い、それぞれの持ち場で巧みに連携したという結束の固さも大きく、こうした人と戦法の両面がかみ合った点にこそ、島津がこれほどまでに恐れられた理由があったと考えられる。

大友氏の衰退と耳川の戦い

かつて九州北部に大きな威を張った大友宗麟の大友氏は、1578年の耳川の戦いにおいて日向へ大挙して侵攻したものの、迎え撃つ島津義久・家久らの前に手痛い大敗を喫し、多くの有力な重臣を一挙に失って急速に勢いを失っていった。

この耳川での敗戦を大きな境として、それまで大友の傘下にあった国人衆の離反が相次ぎ、九州の勢力図は一気に島津へと傾き、宗麟はやがて本国である豊後さえも脅かされるという深刻な苦境へと追い込まれていくのである。

龍造寺氏の敗退と沖田畷

肥前で急成長を遂げ「五州二島の太守」とまで称された龍造寺隆信もまた島津の壁に阻まれ、1584年の沖田畷の戦いにおいて島津家久・有馬晴信の連合軍と激突し、当主の隆信自身が討ち取られるという衝撃的な惨敗を喫した。

こうして大友・龍造寺という九州の二大勢力がいずれも島津の前に屈したことで、島津氏による九州統一はもはや時間の問題と見なされる情勢となり、これに抗しうる有力な勢力はもはや風前の灯であったと伝わる。

大友宗麟、秀吉に救援を求める

本国豊後まで島津の圧迫を受けて追い詰められた大友宗麟は、ついに独力での抵抗を断念し、すでに畿内から中国・四国までを平定して絶大な権勢を誇っていた豊臣秀吉のもとへみずから赴き、島津討伐の救援を懇請したのである。

秀吉はこの求めを九州へ介入する絶好の好機ととらえ、天下人として諸大名の私的な争いを禁じる立場から、島津の飽くなき攻勢を許しがたい秩序への挑戦とみなし、これを名目として九州問題への関与を一気に本格化させていった。

秀吉の惣無事令と停戦命令

秀吉は大名同士が私的に領土を争うことを固く禁じる、いわゆる惣無事令の理念を高く掲げ、島津氏に対して大友との戦いをただちにやめ、両者の係争地の裁定を天下人たる自らの手に委ねるよう、厳しく停戦を命じたのである。

これは単なる中立的な調停にとどまらず、自らの裁定に素直に従うか否かによって、島津を天下の秩序のうちに取り込むか、それとも公然たる討伐の対象とするかを慎重に見極めようとする、周到な政治的布石であったといえる。

島津氏の拒否と決裂

しかし島津の当主義久らは、あと一歩に迫った九州統一の悲願をどうしても捨てきれず、成り上がりと見る秀吉からの命令に容易には服さず、表向きの交渉に応じるふりを見せつつも、実質的にはこれを拒む姿勢を崩さなかったと伝わる。

島津が口では和を語りながら豊後方面への攻勢をなおも続けたため、秀吉はついに九州への大規模な軍事介入を決断するに至り、天下人と九州の覇者との全面衝突は、もはや誰の目にも避けられないものとなっていったのである。

戸次川の戦いと四国勢の敗北

秀吉はまず先遣の軍として、仙石秀久を軍監に立て、長宗我部元親・信親の父子や十河存保らの四国勢を豊後へと差し向け、北上する島津の勢いを食い止めようとしたが、この緒戦は豊臣方の思わぬ惨敗に終わることとなった。

1586年の暮れに起きた戸次川の戦いにおいて、島津家久は得意とする巧みな誘いの戦法で四国勢を川向こうへとおびき寄せ、これを痛烈に討ち破って壊滅させ、若き勇将として将来を大いに嘱望されていた長宗我部信親を討ち取ったのである。

軍監の仙石秀久は戦線を放棄して早々に逃走し、十河存保もまた討死するなど、四国勢は立ち直りがたい甚大な損害を被り、この敗報は緒戦のつまずきとして豊臣方に大きな衝撃を与え、島津の武威をあらためて天下に知らしめる結果となった。

秀吉本隊と秀長別働隊の大挙侵攻

緒戦の手痛い失態を受けて、秀吉は諸大名を総動員した空前の大軍をみずから率い、翌1587年、二つの方面から九州へ大挙して攻め下る態勢を整え、その総勢は二十万にも及んだと伝わるが、その数については諸説がある。

秀吉の本隊は肥後方面から薩摩へ向けて堂々と南下し、いっぽう弟の豊臣秀長は日向方面を進む別働隊を率いて、島津の本国を東西から大きく挟み撃ちにする構えをとり、圧倒的な物量を前にして島津方はしだいに守勢を強いられていった。

この一大遠征において、兄秀吉を長年にわたって陰から支え続けてきた弟秀長の役割はきわめて大きく、日向方面軍という一方の主力を任され、諸大名の寄せ集めからなる大軍を破綻なく巧みに統率してみせたのである。

温厚篤実で調整に長けた秀長は、逸る諸将をよくなだめてまとめあげ、兵站を確保しながら着実に島津方の拠点を攻略していき、のちに天下一の補佐役と称されるその真価を、この九州の地においていかんなく発揮したと伝わる。

根白坂の戦い — 決定打となった一戦

1587年、秀長の率いる別働隊が日向の要衝を厳重に包囲すると、島津義久・義弘らは一挙に戦局を挽回すべく、包囲陣の要となっていた根白坂の砦へ夜襲をも含む猛攻を仕掛け、まさに乾坤一擲の大反撃に打って出たのである。

しかし秀長はあらかじめ堅固な陣城を築いて備えを固めており、押し寄せる島津軍を防塁の前で幾度となく跳ね返し、ついにこれを撃退して大きな損害を与え、この根白坂の戦いこそが九州征伐全体の流れを決する決定打となった。

得意の攻めをもってしても豊臣方の分厚い布陣をどうしても崩せなかったという事実は、島津方の将兵に抗戦の限界を痛感させ、これを境に島津は組織的な反攻の力を失って、しだいに降伏へと大きく傾いていくことになったのである。

島津義久の剃髪と降伏

根白坂での敗報と、薩摩の本国へと肉薄する秀吉本隊の圧力を受けて、島津義久はもはや抗すべき術のないことを深く悟り、みずから剃髪して龍伯と号し、恭順の意をはっきりと示して秀吉のもとへ降伏を申し入れたのである。

弟の義弘や歳久ら一部の将にはなおも徹底抗戦を唱える声があったとも伝わるが、すでに大勢は決しており、島津氏は当主みずからが頭を丸めて降るという形で名を捨てて実を取り、一族の存続をなんとか図る道を選んだのであった。

薩摩・大隅の安堵と戦後処理

秀吉は降伏してきた島津氏をあえて根絶やしにはせず、義久には本領である薩摩一国を、弟の義弘には大隅一国をおおむね安堵し、さらに日向の一部を加えて、九州の南端における島津の家としての存続を正式に認めたのである。

これは遠国の有力な大名を圧倒的な力で屈服させたうえで、なお温情をもって寛大に取り込み、天下の秩序のうちへ組み込もうとする秀吉一流の統治術であり、島津はこれよりのち豊臣政権を支える一大名として位置づけられていく。

戦後の九州仕置とバテレン追放令

島津を屈服させた秀吉は、ただちに九州全体の新たな秩序づくりに着手し、博多に腰を据えて諸大名の領地を大きく割り振る国分け、いわゆる九州仕置を行い、平定したばかりの広大な地を豊臣政権のもとへ組み込んでいったのである。

このとき秀吉は、たび重なる戦乱によって荒れ果てていた交易の要衝博多の町の再建にも力を注ぎ、道筋を整然と区切り直す町割りを進めさせたと伝わり、これはのちに太閤町割りとも称される復興事業として知られている。

さらに秀吉はこの九州滞在の折、いわゆるバテレン追放令を発してキリスト教の宣教師に国外退去を命じたと伝わり、天下統一の総仕上げに向かう政権が、宗教勢力との向き合い方をも定めようとした画期として、九州征伐は大きな意味をもったのである。

九州征伐の歴史的意義

九州征伐によって、秀吉の天下統一事業はついに西国の果てである九州の南端にまで及び、畿内・中国・四国に続いて南の大国島津をも従えたことで、その広大な版図は日本列島の西半をほぼ完全に覆い尽くすに至ったのである。

こうして残された未平定の地は、関東に覇を唱える北条氏の広大な領国と、そのさらに奥に横たわる奥州のみとなり、天下統一の総仕上げは、この後に続く小田原征伐と奥州仕置へと大きく引き継がれていくことになった。

兄弟が支えた九州平定

九州征伐は、統一を目前まで迫らせていた島津氏を、豊臣秀吉が圧倒的な物量と巧みな政治的手腕によって屈服させた、天下統一の総仕上げに向かう一大画期であったと位置づけることができるだろう。

とりわけ、弟の秀長が率いた別働隊が根白坂で決定打を放ったという事実は、兄を陰でひたむきに支え続けた名補佐役の真骨頂を示すものであり、豊臣の兄弟が力を合わせて成し遂げた九州平定として、後世に長く語り継がれているのである。

この戦いに登場した主な武将(豊臣・反島津方)

この戦いに登場した主な武将(島津四兄弟)

各武将の生涯や関連する合戦・事件については、姉妹サイトでもくわしく解説しています。あわせてご覧ください。→ 戦国ヒストリー(姉妹サイト)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次