さくま のぶもり
| 地域 | 東海(尾張) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 織田氏(家老) |
| 大名家 | 佐久間氏 |
| 家紋 | 三つ引両 |
| 主武器 | 采配・槍 |
| 衣装・甲冑 | 黒い具足に陣羽織 |
| 武将タイプ | 古参の宿老 |
佐久間信盛(さくま のぶもり)は、織田信長が若いころから仕えた古参の重臣である。大永8年(1528年)ごろに生まれたとされ、撤退戦の巧みさから「退き佐久間」と呼ばれた。長く織田家の筆頭格の家老として働いたが、天正8年(1580年)、本願寺攻めでの働きを責められて追放され、天正10年(1582年)に亡くなった。
- 尾張の佐久間氏の出身。信長が家督を継いだころから仕え、筆頭格の家老になった
- 撤退戦が巧みで「退き佐久間」と呼ばれた。天正4年(1576年)からは本願寺攻めの総大将を務めた
- 天正8年(1580年)、信長から19か条の折檻状を突きつけられ、子とともに追放された
信長を支えた古参の家老
信盛は、信長が父・信秀から家督を継いだころから仕えた家臣である。信長と弟・信勝が争ったときも信長方につき、尾張の統一や美濃攻めで働いた。
元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、徳川家康への援軍として出陣したが、武田信玄の大軍の前に退いている。撤退を得意としたことから「退き佐久間」と呼ばれたといわれ、「かかれ柴田」と呼ばれた柴田勝家と並び称された。
本願寺攻めの総大将
天正4年(1576年)、信長は大坂の石山本願寺攻めの総大将に信盛を任じた。信盛は尾張・三河・近江などの与力を率い、織田家でも最大級の軍団を預かった。しかし本願寺は、毛利の水軍から兵糧を受けて粘り強く抵抗し、戦いは長引いた。
天正8年(1580年)、本願寺が朝廷の仲立ちで信長と和睦し、大坂を退くと、信盛の役目は終わった。
19か条の折檻状と追放
本願寺が退いた直後、信長は信盛と子の信栄に、19か条にわたる折檻状(叱責の文書)を突きつけた。そこには、本願寺攻めで5年もの間めだった働きがなかったこと、明智光秀や羽柴秀吉、柴田勝家の働きに比べて劣ることなどが書かれていた(『信長公記』)。
信盛父子は高野山に追放され、天正10年(1582年)1月、紀伊の熊野あたりで亡くなったとされる。同じころ林秀貞や安藤守就らも追放されており、古参の家臣でも働きが足りなければ切り捨てる信長の厳しさを示す出来事とされる。子の信栄はのちに許され、織田信忠に仕えた。くわしくは「織田家臣団と秀吉家臣団を比較」でも紹介している。
佐久間信盛をめぐる人物
- 主君:織田信長
- 並び称された同僚:柴田勝家/丹羽長秀
- 同じころ追放された重臣:林秀貞/安藤守就
- 戦った相手:本願寺顕如
ゆかりの地
- 石山本願寺跡(大坂城跡付近)(大阪市中央区):信盛が攻めた本願寺があった地
- 高野山(和歌山県高野町):追放された信盛父子が入った山










































