やまよし とよもり
| 地域 | 甲信越 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 上杉家臣 |
| 大名家 | 上杉 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・行政書状 |
| 衣装・甲冑 | 華美具足 |
| 武将タイプ | 外交・取次 |
山吉豊守(1543?〜1577)は越後の武将で、上杉謙信の側近である。奏者として信濃・関東の諸大名との取次を担い、北条氏との越相同盟の交渉を主導した。天正3年の上杉家軍役帳では最大規模の軍役を負っている。
三条長尾氏の被官から
山吉豊守は越後の武将で、通称は孫次郎。生年は天文12年(1543)とする説があるが、確かではない。
山吉氏は蒲原郡山吉(現在の新潟県見附市山吉町)の出とされる。代々、越後守護代家の一つ三条長尾氏の被官(家来)で、三条城(新潟県三条市)を領した。
謙信の奏者
永禄10年(1567)以降、豊守は上杉謙信の側近として奏者(そうじゃ)を務めた。奏者とは、主君と他の大名や家臣との間で取次ぎをする役である。豊守は信濃や関東の諸大名との交渉、各地に派遣された将との連絡調整にあたった。
永禄12年(1569)ごろには、相模の北条氏との交渉を主導した。長く敵対していた上杉氏と北条氏は、この年に同盟を結ぶ。これを越相同盟という。越は越後、相は相模を指す。豊守はその締結に貢献した。
ただし越相同盟は長く続かなかった。元亀2年(1571)に北条氏康が没すると、跡を継いだ氏政は武田信玄と再び手を結び、同盟は破れた。
軍役帳に見る山吉氏
天正3年(1575)の上杉家軍役帳は、家臣ごとに出すべき兵の数と装備を定めた記録である。これによると豊守の負担は、鑓235丁、手明(てあき。武器を持たない兵)40人、鉄砲20丁、大小旗30本、騎馬52騎、計377人だった。軍役帳のなかで最大規模である。
豊守は天正5年(1577)に病没した。謙信が没する前年である。家督は弟の景長が継いだ。
ゆかりの地
- 三条城跡(新潟県三条市):山吉氏が領した城
- 山吉町(新潟県見附市):山吉氏の出身地とされる
参考にした資料
上杉謙信の重臣
豊守は、越後の上杉謙信に仕えた重臣です。山吉家は、越後の三条を本拠とした家でした。
三条城主
山吉家は、越後の中央部にある三条城を拠点としていました。三条は、信濃川の流れに沿った交通の要地でした。
若くして重臣に
豊守は、若くして謙信に重く用いられたとされます。
奏者として
豊守は、謙信の奏者(取次)を務めました。奏者とは、ほかの大名や家臣からの願いや書状を主君に取り次ぐ役目です。
外交の担い手
豊守は、謙信の外交にも深く関わりました。他の大名との交渉の書状に、その名が多く残されています。
織田家との交渉
謙信と織田信長が同盟を結んでいた時期、豊守は織田家との交渉の窓口の一人を務めたとされます。
北条家との交渉
また、謙信が北条家と同盟を結んだ「越相同盟」の交渉にも関わったとされます。
謙信の信頼
謙信は、豊守を深く信頼していたとされます。謙信の家臣の中でも、豊守は政治と外交の面で欠かせない存在でした。
山吉家の大きな勢力
山吉家は、上杉家の家臣の中でも大きな兵力を持つ家として知られていました。
早すぎる死
豊守は1577年、まだ30代の若さで亡くなったとされます。
山吉家の縮小
豊守の死後、謙信は山吉家の所領を減らし、弟の山吉景長に家を継がせました。家臣の力が大きくなりすぎないようにするためだったともいわれます。
謙信の死
豊守が亡くなった翌年の1578年、謙信も亡くなりました。上杉家では、跡継ぎをめぐる御館の乱が起こりました。
山吉家のその後
弟の景長は、御館の乱では上杉景勝に味方し、その後も上杉家に仕えました。
書状に残る名
豊守の名は、上杉家に伝わる多くの書状に残されており、謙信の政治を支えた重臣であったことがわかります。
豊守の評価
豊守は、謙信の奏者として外交や政治を担った重臣です。若くして世を去りましたが、その働きは謙信の時代の上杉家を陰から支えるものでした。
このイラストについて
若い武将が装束をまとい、屋敷の中で家臣たちと城を背にした姿です。
屋敷の中の場面は、謙信の奏者として書状の取り次ぎや外交を担った豊守をイメージしています。背景の城は、山吉家の本拠であった三条城を思わせるものです。若々しい顔立ちは、30代で世を去った豊守を表したもので、想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
越後守護代・長尾氏の出身である長尾景虎(上杉謙信)が、1561年に関東管領上杉憲政から上杉の名跡と管領職を譲られて始まった戦国大名の上杉家。謙信は信濃の川中島で武田信玄と五度にわたって対陣し、たびたび関東へ出兵して北条氏とも争った。晩年には加賀の手取川で織田軍を破っている。
上杉家の歴史と武将一覧を見る →





















































