きら うじとも
| 地域 | 関東 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 世田谷吉良氏(後北条氏の縁戚) |
| 大名家 | 吉良氏(世田谷吉良氏) |
| 家紋 | 足利二つ引 |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 北条と結んだ名門の当主 |
吉良氏朝(きら うじとも)は、武蔵国世田谷の世田谷城を本拠とした世田谷吉良氏の当主で、この城の最後の城主となった人物である。天文12年(1543年)ごろに生まれ、慶長8年(1603年)に没した(生年を1542年とする説もある)。養父・吉良頼康の跡を継ぎ、後北条氏の縁戚として家を保ったが、小田原征伐で北条氏が滅ぶと世田谷城を失った。
- 世田谷吉良氏・吉良頼康の養子。実父は遠江今川氏の堀越六郎、実母は北条氏綱の娘・崎姫とする説が有力で、北条氏の血を引いていた
- 妻は北条氏康の娘(北条幻庵の娘を氏康の養女としたとみる説もある)。後北条氏と二重の縁で結ばれた
- 天正18年(1590年)の小田原征伐で上総へ逃れ、世田谷城は廃城。のち家康に仕えたが、所領は返上した。慶長8年(1603年)没
北条の血を引く養子
氏朝は、世田谷吉良氏の当主・吉良頼康の養子となって家を継いだ。本姓は今川とされ、実父は遠江今川氏の堀越六郎、実母は北条氏綱の娘・崎姫とする説が有力である。頼康の正室も氏綱の娘だったから、氏朝は頼康にとって妻の甥にあたる。
氏朝は北条氏康の娘を妻に迎えたとされる(北条幻庵の娘を氏康の養女として嫁がせたとみる近年の説もある)。世田谷吉良氏は、こうして後北条氏と何重にも結びついた。
世田谷城の城主として
氏朝の時代、世田谷は後北条氏の勢力の中で栄えた。天正6年(1578年)には北条氏政が世田谷新宿に楽市を開き、これが今の世田谷ボロ市の起源とされる。天正元年(1573年)には、氏朝が龍鳳寺を勝光院と改めたと寺に伝わる。勝光院は今も吉良氏の菩提寺として残っている。
小田原征伐と世田谷城の終わり
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐が始まる。北条方の縁戚である氏朝は、戦いの中で上総国生実(千葉市)へ逃れ、世田谷城は廃城となった。
北条氏が滅んだあと、氏朝は関東に入った徳川家康に仕え、世田谷に1120石を与えられた。しかし、のちにこれを返上している。慶長8年(1603年)に没した。
子孫 ― 蒔田氏から高家へ
氏朝の子孫は蒔田氏を名乗り、江戸幕府の旗本となった。明暦3年(1657年)には高家に加えられ、三河の吉良家が赤穂事件で断絶したあと、宝永7年(1710年)に吉良の姓に戻ることを許されている(宝永6年とする資料もある)。世田谷吉良氏の流れは、こうして吉良の名を江戸時代の終わりまで伝えた(「関東にもいた吉良氏|世田谷吉良氏と後北条氏」参照)。
吉良氏朝をめぐる人物
ゆかりの地
- 世田谷城阯公園(東京都世田谷区豪徳寺):氏朝が最後の城主となった世田谷城の跡。土塁と空堀が残る
- 勝光院(世田谷区桜):氏朝が龍鳳寺を改めたと伝わる吉良氏の菩提寺。吉良氏墓所は区の史跡
- 豪徳寺(世田谷区豪徳寺):吉良政忠が開いた弘徳院が始まり
この人物をもっと知る本
- 【一般書】谷口雄太『足利将軍と御三家 吉良・石橋・渋川氏』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー):将軍家に次ぐ家格とされた吉良氏を、三河吉良・武蔵吉良の両方から最新研究でたどる入門書
- 【地元の本】世田谷区『世田谷区史 中世編』:世田谷区立郷土資料館で販売。戦国時代の世田谷と吉良氏をくわしく知ることができる


















