今川氏真 | 国を失っても生き抜いた義元の子。和歌と蹴鞠に通じ、家康の庇護で江戸時代まで生きた

今川氏真

いまがわ うじざね

地域東海
所属勢力・属性今川氏
大名家今川氏
家紋足利二つ引(赤鳥紋も知られる)
主武器太刀
衣装・甲冑直垂・烏帽子
武将タイプ国を失っても生き抜いた文化人大名

今川氏真(いまがわ うじざね)は、今川義元の子である。父が桶狭間の戦いで討たれたあと、今川家を支えきれず、ついには国を失った。そのため「暗愚な二代目」と言われることが多い。しかし氏真は、国を失ったあとも北条氏や徳川家康のもとで生き延び、和歌と蹴鞠に優れた文化人として77歳まで生きた。近年は、今川家の衰えを氏真一人の責任とする見方も見直されている。

3行でわかる今川氏真
  • 天文7年(1538年)、今川義元の子として生まれる。母は武田信虎の娘・定恵院。北条氏康の娘・早川殿を妻に迎えた
  • 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いのあと、三河・遠江の国衆の離反が続き、永禄12年(1569年)に掛川城を家康に明け渡した
  • その後は北条氏や家康を頼り、京都で和歌や連歌に親しんだ。慶長19年(1614年)12月(西暦では1615年1月)、江戸で没した
目次

桶狭間のあとの今川家

氏真は、甲相駿三国同盟の一環として、天文23年(1554年)に北条氏康の娘・早川殿と結婚した。家督を継いだ時期は弘治3年(1557年)説や永禄2年(1559年)説などがあり、父の義元から段階的に引き継いだとする見方もある。

永禄3年(1560年)、義元が桶狭間の戦いで討たれる(「桶狭間の戦いをわかりやすく解説」参照)。これをきっかけに、三河では松平元康(のちの徳川家康)が独立し、遠江でも国衆が次々と背いた(遠州忩劇)。いっぽうで氏真は、永禄9年(1566年)に富士大宮の市を楽市とするなど、立て直しにも取り組んでいる。

掛川城の開城

永禄11年(1568年)12月、甲斐の武田信玄が同盟を破って駿河に攻め込んだ。同じころ西からは家康が遠江に進み、氏真は掛川城に立てこもる。半年近くの籠城ののち、永禄12年(1569年)5月、氏真は家康と和睦して城を明け渡した。これで戦国大名としての今川氏は終わりを迎えた。

城を出た氏真は、妻の実家である北条氏を頼った。のちに北条氏が武田氏と手を結ぶと、今度は家康の庇護を受けることになる。かつて今川家の人質だった家康が、今度は氏真を守る立場になったのである。

文化人としての後半生

天正3年(1575年)、氏真は京都で織田信長と会い、信長の前で蹴鞠を披露した。父の仇の前で蹴鞠をした屈辱として語られがちだが、公家たちとともに技を見せた文化的な場でもあった。その後、家康のもとで遠江の牧野城(諏訪原城)の城主を務めたこともある。

晩年は京都に住み、公家たちと歌会や連歌の会に加わった。残された和歌は1,600首ほどにのぼる。慶長17年(1612年)には駿府で家康と会い、近江に500石の知行を認められた。翌年に妻を亡くし、慶長19年(1614年)12月、江戸で亡くなった。子孫は江戸幕府の高家として続いた。

今川氏真をめぐる人物

ゆかりの地

  • 掛川城(静岡県掛川市):氏真が籠城し、家康に明け渡した城
  • 観泉寺(東京都杉並区今川):氏真の墓所。寛文2年(1662年)に早川殿とともに移された。「今川」の地名も今川家にちなむ
  • 駿府城公園(静岡県静岡市葵区):今川氏の館があったと考えられている場所

この人物をもっと知る本

  • 【評伝】黒田基樹『徳川家康と今川氏真』(朝日新聞出版・朝日選書):家康との関係を軸に氏真の実像に迫る
  • 【新書・選書】大石泰史『今川氏滅亡』(角川選書):今川家が滅んだ理由を最新の研究でたどる
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