徳川家康と秀忠 ― 神になった戦国の勝者と、東京にあった“世界遺産級”の将軍家霊廟

テレビの歴史ドキュメンタリーで、かつて東京の中心にあった徳川将軍家の壮麗な霊廟が、精密な立体映像でよみがえります。「今あれば世界遺産間違いなし」とも言われるその建築の主こそ、戦国乱世を勝ち抜いた徳川家康と、その跡を継いだ二代・秀忠でした。戦国の勝者たちがなぜ神として祀られ、どんな霊廟に眠ったのか。番組の背景を、武将の物語からたどります。

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よみがえる“国の宝”――徳川将軍家の霊廟

かつて江戸・東京の中心には、徳川将軍家の霊廟が壮麗な姿で建ち並んでいました。芝の増上寺と上野の寛永寺に営まれたそれらは、金と極彩色に彩られた権現造の傑作で、その荘厳さは古代ギリシャのパルテノン神殿やスペインのアルハンブラ宮殿に並ぶとも評されます。しかし多くは昭和20年(1945年)の空襲で焼け落ち、いまは「失われた国の宝」となりました。その霊廟に眠るのが、戦国を制した家康・秀忠の父子です。

戦国を勝ち抜いた家康

徳川家康は天文11年(1543年)、三河の小大名の子として生まれました。今川の人質という苦難から身を起こし、織田信長と結び、豊臣秀吉とは時に戦い時に従いながら力を蓄えます。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで天下の実権を握り、慶長8年(1603年)に江戸幕府を開きました。二百六十余年に及ぶ泰平の礎は、戦国の荒波を最後まで生き抜いた家康の忍耐から生まれたのです。

神になった家康――東照大権現

元和2年(1616年)、家康は駿府で世を去りました。享年七十五。その遺言により、遺骸はまず駿河の久能山に葬られ、翌年、日光へと改葬されます。朝廷は家康に「東照大権現」の神号を贈り、家康は神として日光東照宮に祀られました。戦国の勝者が神格化され、その神が子孫の幕府を守るという構図――これこそ、のちに江戸で花開く将軍家霊廟の壮麗さの原点になりました。

二代・秀忠――遅参から、幕府の礎へ

家康の跡を継いだのが三男の徳川秀忠です。天正7年(1579年)生まれの秀忠は、関ヶ原では中山道を進む別働隊を率いましたが、信濃で真田昌幸の上田城に足止めされ、本戦に遅参したことで知られます。しかし将軍となってからの秀忠は、武家諸法度や禁中並公家諸法度を整え、大名を厳しく統制して幕府の土台を固めました。正室は浅井三姉妹の三女・お江(崇源院)。派手さはないが着実な二代目が、家康の遺した天下を制度として根づかせたのです。大坂の陣で豊臣家を滅ぼしたのも、この秀忠の代でした。

台徳院霊廟――東京にあった“世界遺産級”の建築

増上寺に残る徳川将軍家の墓所と供養塔
徳川将軍家の菩提寺・増上寺に眠る将軍家の墓所(イメージ)

寛永9年(1632年)に秀忠が没すると、芝の増上寺に壮大な霊廟が営まれました。これが「台徳院霊廟(たいとくいんれいびょう)」です。内外を彫刻と彩色、漆で飾り尽くした権現造の建築群は、昭和5年(1930年)に国宝へ指定されるほどの傑作でした。ところが昭和20年(1945年)の東京大空襲で、その大半が焼失してしまいます。焼け残った惣門はいまも芝公園に、勅額門などは埼玉県所沢へ移築されて残るのみです。かつて十分の一の精巧な模型が海を渡って英国王室のコレクションに収められ、近年になって修復のうえ増上寺へ里帰りしたことでも知られ、失われた霊廟の姿を今に伝えています。

戦国の勝者たちが眠る場所

増上寺と寛永寺には、秀忠をはじめ歴代の将軍が眠り、日光には神となった家康が鎮まります。番組が立体映像でよみがえらせるのは、単なる建築ではなく、戦国という乱世を最後に制した一族の“到達点”そのものです。大坂城を築いた豊臣の栄華が一代で消えたのに対し、家康・秀忠の遺したものは形を変えて長く続きました。失われた霊廟の壮麗さは、戦国を生き抜いた父子の物語とあわせて見ると、いっそう深く胸に迫るはずです。

各武将の生涯や関連する合戦・事件については、姉妹サイトでもくわしく解説しています。あわせてご覧ください。→ 戦国ヒストリー(姉妹サイト)

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