天正15年(1587)6月、九州を平定した豊臣秀吉は、筑前の筥崎に陣を置き、九州の国々を大名たちに割り振りました。これが「九州国分(くにわけ)」です。降伏した島津家、秀吉に救いを求めた大友家、九州攻めで手柄を立てた黒田官兵衛や立花宗茂、そして新たに乗りこんできた小早川隆景や佐々成政。九州の地図は、このとき大きく描き直されました。
では、このとき領地を与えられたり安堵されたりした大名家は、その後どうなったのでしょうか。この記事では、九州国分に名を連ねた家を一つずつ追い、明治維新まで大名として残った家と、途中で消えた家に分けて整理します。誰がどの国をもらったかという国分けの内訳は、姉妹サイト日本の歴史ガイドの九州攻めはどう終わったのか|筥崎の九州国分けにくわしくまとめられています。
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結論から ― 明治まで残った家、消えた家
| 明治まで残った | 島津(薩摩)、伊東(飫肥)、秋月(高鍋)、相良(人吉)、黒田(筑前)、大村(大村)、松浦(平戸)、五島(福江)、宗(対馬) |
|---|---|
| 一度消えて、返り咲いた | 立花宗茂(柳川)、高橋統増=立花直次(三池) |
| 主家が入れ替わって残った | 龍造寺 → 鍋島(佐賀) |
| 九州を離れて残った | 有馬(日向延岡をへて越前丸岡) |
| 大名としては消えた | 佐々成政、大友義統、小早川(隆景・秀秋)、毛利勝信、毛利秀包、筑紫広門、波多親、高橋元種 |
天正15年に九州国分に名を連ねた家のうち、4割ほどが江戸時代のはじめまでに大名の座を失っています。消えた時期を見ると、国分のすぐあと、朝鮮出兵のさなか、関ヶ原の戦い、そして江戸時代のはじめと、四つの波がありました。

九州国分とは ― 筥崎で描き直された九州の地図

天正15年5月、島津義久が降伏すると、秀吉は薩摩から北へ引き返し、6月のはじめに筑前の箱崎に入りました。ここで秀吉は九州の領地の割り振りを決めます。考え方を大きくまとめると、次の三つでした。
- 降伏した島津家は残す:薩摩・大隅と日向の一部を安堵し、九州の南に封じこめる
- 北九州には信頼できる大名を置く:筑前に毛利家の重鎮・小早川隆景、豊前に黒田官兵衛と毛利勝信、肥後に佐々成政
- もとからの領主は、従えば残す:肥前の龍造寺・有馬・大村・松浦、肥後の相良、日向の伊東・秋月などは、おおむね元の領地を認める
九州攻めそのものの流れは九州征伐をわかりやすく解説で、国分の直後に出されたバテレン追放令はバテレン追放令とキリシタン大名で取り上げています。
明治まで残った家
| 家 | 九州国分で得た地位 | 江戸時代 |
|---|---|---|
| 島津義久・義弘 | 薩摩・大隅と日向諸県郡を安堵 | 関ヶ原で西軍につきながら領地を守り、薩摩藩77万石として明治維新の主役になる |
| 伊東祐兵 | 九州攻めの道案内の功で、旧領の日向飫肥に復帰 | 飫肥藩5万石。島津に追われて流浪した伊東家が、豊臣の世で本領に戻った |
| 秋月種実 | 筑前の古処山城から日向財部(高鍋)3万石へ移される | 子の秋月種長が高鍋藩の初代となり、明治まで続く |
| 相良長毎(頼房) | 肥後球磨郡を安堵 | 人吉藩2万2千石。鎌倉時代から同じ土地を治め続けた、全国でもまれな家 |
| 黒田官兵衛・長政 | 豊前6郡12万石(中津) | 関ヶ原の功で筑前52万石へ。福岡藩として明治まで |
| 大村喜前 | 肥前大村を安堵(父の純忠は直前に死去) | 大村藩2万7千石 |
| 松浦鎮信 | 肥前平戸を安堵 | 平戸藩6万石余。オランダ・イギリスとの貿易の窓口にもなった |
| 五島(宇久)純玄 | 五島列島を安堵 | 福江藩。朝鮮出兵の陣中で純玄は病没するが、家は続く |
| 宗義智 | 対馬を安堵し、朝鮮との交渉役を命じられる | 対馬藩として江戸時代を通じて朝鮮外交を担う |

この中で目をひくのは、伊東家と相良家です。伊東家は天正5年(1577)に島津に敗れて日向を追われ、一時は流浪の身でした。秀吉の九州攻めで道案内をつとめた伊東祐兵は、その功で旧領の飫肥を取り戻し、そのまま江戸時代を通じて飫肥の殿様であり続けます。相良家は、九州攻めのはじめには島津方でしたが、早めに秀吉に降ったことで本領を守りました。
一度消えて、返り咲いた家 ― 立花宗茂と高橋統増
九州国分で一番の出世をしたのは、筑後柳川13万2千石の大名に取り立てられた立花宗茂でしょう。前年、父の高橋紹運が岩屋城で玉砕し、宗茂自身も立花山城で島津軍を退けた功が認められ、大友家の家臣から独立した大名になりました。弟の高橋統増(のちの立花直次)も筑後三池に1万8千石を与えられています。
ところが兄弟は、関ヶ原の戦いで西軍についたため、そろって領地を失います。ここから宗茂は浪人として苦しい時期を過ごしますが、徳川家に仕えて陸奥棚倉で大名に復帰し、元和6年(1620)には旧領の柳川に戻ってきました。関ヶ原で改易された大名が、もとの領地に大名として戻ったのは、宗茂ただ一人とされています。弟の家も、子の代に三池の大名に返り咲き、明治まで続きました。
主家が入れ替わって残った家 ― 龍造寺と鍋島
肥前の大部分は、国分で龍造寺政家に安堵されました。しかし政家は病弱で、家の実権はすでに重臣の鍋島直茂が握っていました。秀吉もそれを認め、直茂に直接所領を与えています。
やがて天正18年に政家は隠居し、跡を継いだ高房も慶長12年(1607)に若くして亡くなると、龍造寺の本家は絶えました。佐賀の領地は鍋島家のものとなり、佐賀藩35万7千石として明治まで続きます。家としての「佐賀の殿様」は残りましたが、国分のときの龍造寺家は消えた、と見ることもできます。
九州を離れて残った家 ― 有馬晴信
肥前島原の有馬晴信は、国分で領地を安堵され、関ヶ原では東軍について家を守りました。ところが慶長17年(1612)、家康の側近・本多正純の家臣だった岡本大八との贈収賄事件(岡本大八事件)にからんで死罪となります。家は子の直純が継ぎましたが、有馬の地を離れて日向延岡へ移され、のちに越前丸岡に移って明治を迎えました。家は残ったものの、九州からは離れていったケースです。
大名として消えた家
| 家 | 九州国分で得た地位 | 消えた時期と理由 |
|---|---|---|
| 佐々成政 | 肥後一国(球磨郡を除く) | 天正16年(1588)。国分直後の肥後国人一揆の責任を問われ、摂津尼崎で切腹 |
| 大友義統(宗麟の子) | 豊後一国と豊前宇佐郡の半分 | 文禄2年(1593)。朝鮮出兵の陣で味方を見捨てて退いたとして改易。関ヶ原のとき豊後で挙兵するが、石垣原の戦いで黒田官兵衛に敗れる |
| 小早川隆景・秀秋 | 筑前一国と筑後・肥前の一部 | 慶長7年(1602)。隆景の養子・秀秋は関ヶ原の功で岡山へ移るが、21歳で急死し跡継ぎなく断絶 |
| 毛利勝信 | 豊前小倉6万石 | 慶長5年(1600)。関ヶ原で西軍について改易。子の毛利勝永は大坂の陣で活躍する |
| 毛利秀包(小早川秀包) | 筑後久留米 | 慶長5年。関ヶ原で西軍について改易。子孫は長州藩の一門として残る |
| 筑紫広門 | 筑後上妻郡 | 慶長5年。関ヶ原で西軍について改易。のちに子孫は旗本となる |
| 波多親 | 肥前岸岳城(唐津)を安堵 | 文禄2年(1593)。朝鮮出兵での不手際を咎められて改易 |
| 高橋元種 | 日向延岡(県)5万石 | 慶長18年(1613)。罪を犯した者をかくまったとして改易 |
消えた家を時期ごとに見ると、四つの波があったことがわかります。
- 国分の直後:佐々成政。新しい領主として乗りこんだ肥後で、いきなり一揆に足をすくわれました
- 朝鮮出兵のさなか:大友義統、波多親。戦場での失態を秀吉に厳しく咎められました。唐津の波多家の跡には、秀吉の家臣・寺沢広高が入ります
- 関ヶ原の戦い:毛利勝信、毛利秀包、筑紫広門、そして立花兄弟。九州の西軍大名は、ほぼすべて領地を失いました
- 江戸時代のはじめ:小早川秀秋の断絶、高橋元種の改易、有馬晴信の死罪。徳川の世になってからも、大名の取りつぶしは続きました
宮崎城に見る関ヶ原 ― 高橋元種と伊東家

九州国分の結果は、関ヶ原のときに思わぬ形で表に出ました。国分で日向の延岡(県)を与えられた高橋元種は、宮崎城も支配下に置いていました。宮崎城は、かつて伊東家の城だった場所です。
慶長5年の関ヶ原の戦いで、高橋元種は兄の秋月種長とともに西軍につき、大垣城に籠城していました。本戦で西軍が敗れると、兄弟は大垣城で東軍に寝返ります。ところが本戦から2週間後の9月29日、東軍の伊東家は家老の稲津重政に宮崎城を攻めさせ、城を落としてしまいました。翌年、元種はすでに東軍に降っていたとして、家康の裁定で宮崎城は元種に返されることになります。国分で決まった境目をめぐる争いが、関ヶ原の混乱のなかで再び火を噴いた出来事でした。その元種も、13年後には改易されてしまいます。
年表で見る九州国分とその後
| 年 | できごと |
|---|---|
| 天正15年(1587)5月 | 島津義久が降伏 |
| 天正15年6月 | 筥崎で九州国分。19日にバテレン追放令 |
| 天正15年7月 | 肥後国人一揆が起こる |
| 天正16年(1588)閏5月 | 佐々成政が切腹。肥後は加藤清正と小西行長に分け与えられる |
| 文禄2年(1593) | 大友義統、波多親が改易 |
| 慶長5年(1600) | 関ヶ原の戦い。立花宗茂・高橋統増・毛利勝信・毛利秀包・筑紫広門が改易。黒田長政は筑前へ |
| 慶長7年(1602) | 小早川秀秋が急死し、小早川家断絶 |
| 慶長12年(1607) | 龍造寺本家が絶え、佐賀は鍋島家のものに |
| 慶長17年(1612) | 有馬晴信、岡本大八事件で死罪 |
| 慶長18年(1613) | 高橋元種が改易 |
| 元和6年(1620) | 立花宗茂、柳川に返り咲く |
まとめ
九州国分は、島津を南に封じこめ、北九州に秀吉が信頼する大名を置き、もとからの領主は従えば残すという、三つの考えで描かれた地図でした。そして明治まで生き残ったのは、意外にも、もとからその土地にいた家が中心でした。島津・相良・伊東・松浦・大村・宗、そして実権を握った鍋島。一方で、秀吉が新しく送りこんだ佐々や小早川、毛利勝信は、いずれも長くは続きませんでした。新しく入って生き残ったのは、関ヶ原で家康についた黒田家くらいです。土地に根を張った家の強さと、天下人の後ろ盾だけを頼りにした家のもろさが、そのまま明暗を分けたといえそうです。




































































