天正15年(1587)、九州平定のあと豊前6郡を与えられた黒田孝高(官兵衛)の前に、一人の国人が立ちはだかりました。鎌倉時代から豊前の城井谷を治めてきた名門・宇都宮氏の当主、城井鎮房(きい しげふさ)です。秀吉の国替えの命令を拒んだ鎮房は、天然の要害・城井谷にこもり、攻め込んできた若き黒田長政の軍を打ち破りました。しかし翌年、鎮房は中津城に招かれ、宴の席で命を落とします。肥後の国人一揆と同じころ、豊前で起きた城井谷の戦いを、戦の流れに沿ってわかりやすく解説します。
城井谷の戦いは、豊前国人一揆のなかで、城井鎮房が黒田孝高・長政父子の軍と戦った戦いです。天正15年10月、黒田長政は城井谷に攻め込みましたが、地の利を生かした鎮房の待ち伏せにあって大敗しました(岩丸山の戦いとも呼ばれます)。
そこで黒田父子は、城井谷のまわりに付け城を築いて補給を断ち、ほかの国人の城を一つずつ落として鎮房を孤立させました。鎮房は娘の鶴姫を人質に出して和睦しますが、翌天正16年4月、中津城の酒宴で謀殺され、城井一族は滅ぼされました。
| いつ | 天正15年(1587)10月〜12月ごろ(鎮房の謀殺は天正16年4月20日) |
|---|---|
| どこ | 豊前国築城郡の城井谷(いまの福岡県築上郡築上町)と、その周辺 |
| 対立 | 城井(宇都宮)鎮房(豊前の国人)× 黒田孝高・長政父子(豊前の新しい大名) |
| 結果 | 長政は城井谷の戦いで大敗。のちに付け城と兵糧攻めで鎮房を追いこみ、和睦 |
| この後 | 天正16年4月、鎮房は中津城で謀殺され、城井一族は滅亡。黒田家は豊前を固める |
城井谷の戦いに登場する主な武将
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城井鎮房とは ― 鎌倉以来の名門・豊前宇都宮氏
城井氏は、鎌倉幕府を開いた源頼朝から豊前の守護に任じられた宇都宮信房の子孫と伝わり、豊前宇都宮氏とも呼ばれます。四百年近くにわたって城井谷を本拠に豊前の東部を治めてきた、九州でも屈指の古い家柄でした。
鎮房は、身の丈六尺(約180センチ)の大男で、強い弓の使い手として知られた武将です。大友氏・島津氏のあいだを渡り歩きながら家を守り、九州征伐では豊臣方について所領を守ろうとしました。嫡男の城井朝房も、父とともに豊臣方として働いています。
なぜ戦いになったのか ― 国替えの命令と朱印状の返上
天正15年の九州国分で、秀吉は鎮房に、先祖伝来の豊前を離れて伊予(愛媛県)へ移るよう命じました。代わりに豊前6郡を与えられたのが、黒田孝高(官兵衛)です。
四百年守ってきた土地を離れることを、鎮房は受け入れられませんでした。鎮房は国替えの朱印状を返し、豊前にとどまることを求めます。天下人の命令を拒んだことになり、黒田家との関係は一気に険しくなりました。
そこへ、肥後で国人一揆が起こります。その知らせに勢いづいた豊前の国人たちも、10月に入ると各地で蜂起しました。鎮房もまた兵を挙げ、黒田方に押さえられていた城井谷の城を取り戻します。豊前国人一揆の始まりです。
城井谷とはどんな場所か
城井谷は、城井川の上流に開けた細長い谷で、まわりを険しい山々に囲まれています。谷の入口は狭く、奥へ進むほど両側から山が迫ります。谷の奥には城井氏の本城(城井谷城、城井ノ上城とも)があり、岩山を利用した天然の要害でした。後世、「城井谷は十万の兵に値する」と言われたと伝わるほどの守りの固い土地です。
大軍で攻め込んでも、狭い谷では兵を広げることができず、両側の山の上から一方的に攻撃を受けることになります。鎮房にとって、城井谷そのものが巨大な城でした。

戦いの流れ① 若き長政の出陣 ― 天正15年10月
鎮房の挙兵を受けて、黒田家の兵を率いて出陣したのは、孝高の嫡男・黒田長政でした。長政はこのとき20歳ほど。父の孝高は肥後の一揆への対応などで豊前を離れていたとも伝わり、若い長政が自ら城井谷を攻めることになります。
長政の軍は、城井谷の北側、岩丸山(広幡城のあたり)から谷の奥へと攻め入りました。
戦いの流れ② 城井谷の待ち伏せ ― 長政の大敗
谷の奥へ進んだ長政の軍を待っていたのは、鎮房の待ち伏せでした。地形を知りつくした城井勢は、山の上や林の中に兵を潜ませ、細い谷道で長く伸びた黒田軍に、四方から矢や鉄砲を浴びせかけます。身動きのとれない狭い谷で、黒田軍は大混乱に陥りました。

この戦いで黒田軍は数百人の死者を出し、長政自身もあやうく命を落としかけたと伝わります。家臣たちに守られて、長政はやっとのことで馬ヶ岳城へ逃げ帰りました。のちに大大名となる長政にとって、生涯で最も苦い敗戦の一つでした。
戦いの流れ③ 付け城と兵糧攻め ― 孝高の持久戦
力攻めでは城井谷は落ちない。そう悟った黒田父子は、作戦を大きく切りかえます。10月下旬、長政は今度は谷の西側から迫り、城井谷の近くに付け城(攻撃用の小さな城)を築きました。城井谷への出入りを見張り、兵糧や武器が運びこまれるのを断つためです。
同時に黒田家は、豊前各地で蜂起したほかの国人たちの城を、一つずつ攻め落としていきました。仲間を失った鎮房は、城井谷の中で孤立していきます。豊臣方の大名たちも黒田家に加勢し、豊前の一揆は年末にかけて鎮まっていきました。
追いつめられた鎮房は、ついに和睦を受け入れます。このとき鎮房は、13歳の娘・鶴姫を人質として黒田家に差し出し、嫡男の朝房も孝高に従うことになったと伝わります。
戦いの流れ④ 中津城の酒宴 ― 天正16年4月20日
和睦から数か月後の天正16年(1588)4月20日、鎮房は中津城の長政のもとを訪れました。家臣たちは城下の合元寺に待たされ、城に入ったのは鎮房とわずかな供だけでした。
長政は酒宴で鎮房をもてなしましたが、宴の最中、合図とともに黒田の家臣たちが鎮房に斬りかかり、鎮房は命を落としました。丸腰同然の宴の席では、剛勇で知られた鎮房もどうすることもできなかったといいます。合元寺に待っていた家臣たちもことごとく討たれ、その血の跡が消えずに寺の壁を赤く塗ったという「赤壁」の伝説が、今も中津に残っています。

さらに、孝高とともに肥後にいた嫡男の朝房も殺され、父の長房、人質の鶴姫らも命を奪われました。鎌倉以来四百年続いた豊前宇都宮氏は、こうして滅びます。
なぜ黒田家は鎮房を許さなかったのか
鎮房の謀殺については、いくつかの理由が考えられています。
- 秀吉の国替えの命令を拒んだ者を、そのまま豊前に残すことはできなかった
- 城井谷のような要害に古い名門が残れば、いつまた一揆が起きるかわからなかった
- 長政にとっては、城井谷での大敗の雪辱でもあった
当時、同じ九州で、肥後の一揆を招いた佐々成政は責任を問われて切腹させられています。新しく入った大名にとって、自分の国で一揆を許すことは、それほど重い失点でした。黒田家は、たとえ非情なやり方であっても、豊前の不安の種を根こそぎ取りのぞく道を選んだのです。
年表で見る城井谷の戦い
| 年月 | できごと |
|---|---|
| 天正15年(1587)6月 | 九州国分。城井鎮房に伊予への国替えが命じられ、黒田孝高が豊前6郡を得る |
| 天正15年7月 | 黒田孝高が豊前に入る。鎮房は国替えの朱印状を返す |
| 天正15年10月 | 肥後国人一揆に続き、豊前の国人が各地で蜂起。鎮房が城井谷の城を取り戻す |
| 天正15年10月 | 黒田長政が城井谷に攻め込み、待ち伏せにあって大敗 |
| 天正15年10月下旬〜 | 長政が付け城を築いて城井谷を封じ、ほかの国人の城を落としていく |
| 天正15年冬 | 鎮房が娘の鶴姫を人質に出して和睦 |
| 天正16年(1588)4月20日 | 鎮房、中津城の酒宴で謀殺される。城井一族も滅ぼされる |
城井谷の戦いのその後
城井一族を滅ぼしたことで、黒田家は豊前の支配を固めました。孝高はまもなく家督を長政に譲り、長政は関ヶ原の戦いのあと筑前52万石の大名となります(九州国分とは)。
筑前に移った長政は、博多の西に新しい城を築き、黒田家の故郷である備前の福岡にちなんで「福岡城」と名づけました。今の福岡市の名は、ここから生まれています。

一方、鎮房が謀殺された中津城は、黒田家が筑前に移ったあと、細川家、小笠原家、奥平家と城主が代わりました。今の天守は昭和39年(1964)に建てられたものです。城内には、鎮房をまつる城井神社があります。

一方、城井谷のあった築上町には、城井氏の城跡や、鎮房をしのぶ史跡が今も残っています。中津の合元寺の赤い壁とともに、四百年の名門の最後を伝えています。
まとめ
城井谷の戦いは、秀吉の国替えの命令を拒んだ城井鎮房が、天然の要害・城井谷にこもって黒田家と戦った戦いです。天正15年10月、鎮房は攻め込んできた黒田長政を待ち伏せで打ち破りましたが、付け城と兵糧攻めで孤立し、娘の鶴姫を人質に出して和睦しました。そして翌年4月、中津城の酒宴で謀殺され、鎌倉以来の豊前宇都宮氏は滅びました。豊前国人一揆の全体像は、姉妹サイトの日本の歴史ガイド「豊前国人一揆とは」でも取り上げています。
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