多賀谷三経 | 結城秀康に仕えた越前柿原3万石の領主

たがや みつつね

地域関東
所属勢力・属性多賀谷氏・結城秀康家臣(越前)
大名家結城(越前松平)
家紋―
主武器太刀
衣装・甲冑塗具足
武将タイプ薄命・病死

常陸下妻城主多賀谷重経の長男。天正18年に父と分かれて結城氏に属し、結城秀康に仕えた。関ヶ原の戦いの後は秀康の越前転封に従い、柿原(現在のあわら市)で3万石余を領した。慶長12年、秀康の死から数か月後に30歳で没した。

目次

下妻多賀谷氏の嫡男

多賀谷三経(たがや みつつね)は天正6年(1578)に生まれた。父は常陸下妻城主の多賀谷重経、幼名は虎千代とされる。多賀谷氏は常陸南西部から下総北部を地盤とする国衆で、結城氏・佐竹氏と結んで勢力を広げた。

重経は佐竹義重の子宣家を養子に迎えた。天正18年(1590)、豊臣秀吉の命により、重経と宣家は佐竹氏に、実子の三経は結城氏に属することになった。三経は廃嫡されて分家し、結城家の養子になったとも伝わる。

結城秀康の家臣として

三経は、結城晴朝の養子となった結城秀康に仕えた。秀康に従って肥前名護屋に出陣した際、石田三成を介添えとして元服し、三成の一字をもらって三経と名乗ったとされる。のち左近将監に任じられた。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは秀康に従った。父の重経は下野小山で家康襲撃を企てたとされ、戦後に所領を没収された。三経は秀康の家臣として家を保った。

越前柿原の領主

慶長6年(1601)、秀康の越前転封に従い、柿原(現在の福井県あわら市)に館を構えた。所領は3万石余とされる。領内では「ふたまたつつみ」などの灌漑施設を整えたと伝わる。

柿原は、北の加賀前田氏の領地に近い越前北部の要地である。三経はこの地で前田氏などへの備えを担ったとされる。

慶長12年(1607)閏4月に秀康が没し、三経も同年7月に30歳で没した。柿原に残る墓所には、笏谷石(福井産の凝灰岩)製の「多賀谷左近三経石廟」や五輪塔があり、石廟はあわら市の指定文化財である。

ゆかりの地

  • 多賀谷左近の墓(あわら市):柿原に残る三経の墓所。笏谷石製の石廟は市指定文化財。
  • 下妻城跡(下妻市):父重経の居城。

参考にした資料

多賀谷氏

多賀谷氏は、常陸の下妻城を本拠とした一族で、結城氏の重臣から力をつけて、下妻の主となりました。

結城秀康

秀康は家康の次男で、秀吉の養子を経て結城家を継ぎました。関ヶ原ののちは越前一国を与えられ、福井藩の初代藩主となりました。

父・重経の改易

三経の父・多賀谷重経は、関ヶ原の戦いで上杉方に通じたとされ、戦の後に領地を失いました。三経は、秀康に仕えることで家を保ちました。

越前への移り

秀康が越前に移ると、三経も主君とともに越前に移り、柿原(今の福井県あわら市)に領地を与えられました。

評価

三経は、父の改易という危機の中で、結城秀康の家臣として多賀谷家を越前に残した人物です。

このイラストについて

このイラストは、花の咲く庭先に立つ若い三経を描いています。

若々しい顔つきと、紺色の甲冑で、新しい主君のもとで家を守ろうとする若者の姿を表しました。

咲き始めた花と霞んだ景色は、常陸から越前へと移った三経の新しい門出をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

結城家

藤原秀郷の流れをくむ下総の名族で、小山氏とは同じ一族にあたる。結城政勝は分国法「結城氏新法度」を定めたことで知られる。

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主家

家臣団

結城秀康
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