筑紫広門 | 肥前勝尾城主、のち筑後に領地を得た国衆

筑紫広門のイラスト(イメージ)

つくし ひろかど

地域九州
所属勢力・属性肥前の国衆→豊臣大名
大名家筑紫家
家紋―
主武器槍
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ山城籠城・転身型

筑紫広門は、肥前の勝尾城(佐賀県鳥栖市)を本拠とした戦国武将である。大友・龍造寺・島津という大きな勢力の間で生き残りをはかった。豊臣秀吉の九州平定後は筑後に領地を得たが、関ヶ原の戦いで西軍についたため改易された。

目次

勝尾城を本拠とした筑紫家

筑紫家の出自には諸説ある。藤原氏の流れをくむ武藤氏(少弐氏)の一門とする説が一般的で、ほかに足利直冬の子孫とする説や、筑紫神社の神官とする説もある。

筑紫家は明応6年(1497)ごろから広門の代まで、約90年・5代にわたって勝尾城を本拠とした。勢力は佐賀県東部から福岡県中西部に及んだ。勝尾城のまわりには山城や館、家臣の屋敷、町屋が並び、城下町を形づくっていた。この遺跡は「勝尾城筑紫氏遺跡」として国の史跡になっている。範囲は東西約2.5km、南北約2kmに及ぶ。

大勢力の間をわたる

広門は弘治2年(1556)、筑紫惟門の子として生まれた。筑紫家は大内氏、大友氏、龍造寺氏と、そのときどきで仕える相手を変えてきた家である。基山から鳥栖にかけての脊振山地の東側を地盤とし、東肥前へ勢力を広げていた。広門も大友宗麟や島津義久と戦い、苦しい立場に置かれた。

天正13年(1585)には大友方の宝満城を奪った。しかし翌年には再び大友方となり、北上してくる島津氏と戦った。天正14年(1586)、勝尾城は島津軍の攻撃で一時落城したが、広門は同じ年の8月に城を取り戻した。

豊臣大名から改易へ

天正15年(1587)、豊臣秀吉が九州に攻め入り、島津氏は降伏した。広門は秀吉に従い、九州の国割りで筑後に1万8000石の領地を与えられた。これにより、筑紫家は長く住んだ勝尾城を離れることになった。

朝鮮出兵にも加わり、戦功をあげたとされる。ところが慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、広門は石田三成の西軍に属した。戦いのあと筑紫家は改易され、広門は加藤清正のもとに身を寄せた。

晩年は夢庵と号し、元和9年(1623)4月23日に68歳で亡くなった。

ゆかりの地

  • 勝尾城筑紫氏遺跡(佐賀県鳥栖市):筑紫家5代の本拠。山城と城下町の跡が残る国史跡
  • 宝満城跡(福岡県太宰府市):広門が天正13年(1585)に大友方から奪った山城

参考にした資料

筑紫広門とは

筑紫広門は、肥前東部の基山のあたりを本拠とした筑紫家の当主です。大友家・龍造寺家・島津家の間で立場を変えながら家を守りました。

勝尾城下町

筑紫家の本拠の勝尾城の周りには、家臣の屋敷や町が広がっていました。その跡は、国の史跡に指定されています。

島津家との戦い

天正14年(1586年)、勝尾城は島津軍に攻められて落ち、広門は捕らえられました。のちに脱出して再起したと伝えられます。

筑後上妻郡

秀吉の九州平定ののち、広門は筑後の上妻郡に領地を与えられ、山下城を本拠としました。

評価

広門は、九州の大きな勢力のはざまで家を守り、豊臣大名にまでなった武将です。しかし関ヶ原で西軍についたため、最後は領地を失いました。

このイラストについて

このイラストは、山城と雲海を背に、兜をかぶった広門を描いています。

大きな前立ての兜と、白い房の付いた采配で、筑紫家を率いた当主の姿を表しました。

夕日に照らされた山々と城は、筑紫家の本拠だった勝尾城をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

筑紫家

筑前・肥前の境の勝尾城を本拠とした国衆。筑紫広門は大友・龍造寺・島津の間で従う相手を変えながら家を保った。

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