たけだ のぶとら
| 地域 | 甲信越 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 武田氏 |
| 大名家 | 武田氏 |
| 家紋 | 武田菱 |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足(晩年は法体) |
| 武将タイプ | 甲斐統一の剛腕創業者 |
武田信虎(たけだ のぶとら)は、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名で、武田信玄の父である。14歳で家督を継ぎ、争いの続いていた甲斐をまとめ上げた。永正16年(1519年)には躑躅ヶ崎(つつじがさき)に館を移し、今の甲府の町の始まりをつくった。天文10年(1541年)、子の晴信(信玄)らによって駿河へ追放されたが、その後も30年以上生き、信玄より長生きした。
- 明応3年(1494年)生まれ(明応7年説もある)。永正4年(1507年)、14歳で甲斐武田家を継ぎ、甲斐をほぼ統一した
- 永正16年(1519年)、躑躅ヶ崎館を築いて本拠を移し、甲府を開いた。娘を今川義元に嫁がせ、今川氏と同盟を結んだ
- 天文10年(1541年)、駿河へ出向いたまま帰国を拒まれ追放された。その後は京都などで暮らし、天正2年(1574年)に信濃の高遠で没した
甲斐の統一と甲府の開府
信虎が家督を継いだころの甲斐は、一族や国衆(地域の領主)が争い、周りの今川氏・北条氏も介入する不安定な国だった。信虎は反抗する一族や国衆を次々に従え、享禄から天文の初めごろ(1530年代初め)までに甲斐をほぼ統一した。
永正16年(1519年)には、本拠を石和から躑躅ヶ崎に移し、家臣を館の周りに住まわせた。これが甲府の始まりで、令和元年(2019年)には甲府開府500年を記念して甲府駅北口に信虎の像が建てられた。大永元年(1521年)には駿河から攻め込んだ軍勢を退け、同じ年に嫡男の晴信(信玄)が生まれている。
今川氏との同盟
天文5年(1536年)に今川家で花倉の乱が起こり、今川義元が当主になると、信虎は義元と手を結んだ。娘の定恵院を義元に嫁がせ、武田と今川の同盟が成立する。この娘が産んだのが今川氏真で、信虎は氏真の祖父にあたる。
駿河への追放
天文10年(1541年)6月、信虎は娘婿の義元を訪ねて駿河へ向かった。ところが甲斐へ戻る道を晴信らに閉ざされ、そのまま帰国できなくなった。事実上の追放である。
追放の理由には諸説がある。『甲陽軍鑑』などの軍記物は信虎を乱暴な暴君として描き、それが原因だとする。ほかにも、続く出兵と飢饉で家臣や領民が疲れ切っていたため家臣団が晴信を立てたという説、信虎が次男の信繁をかわいがり晴信を退けようとしたという説、晴信と義元が示し合わせたという説などがある。近年は、甲斐を統一した実力者として信虎を見直す研究も進んでいる。
信玄より長く生きた晩年
追放されたあと、信虎はしばらく今川氏のもとにいたが、やがて京都に移り、将軍家に仕えるなどして暮らした。元亀4年(1573年)には足利義昭の命で近江に出向いたとされる。
同じ年に信玄が亡くなると、信虎は子の信廉(のぶかど)が守る信濃の高遠城に身を寄せ、天正2年(1574年)にそこで亡くなった。81歳だった。遺骸は甲府の大泉寺に葬られた。
武田信虎をめぐる人物
ゆかりの地
- 大泉寺(山梨県甲府市):信虎が建てた寺で、墓所がある。信廉が描いた信虎の肖像画(国の重要文化財)が伝わる
- 武田神社(躑躅ヶ崎館跡)(山梨県甲府市):信虎が築いた館の跡
- 武田信虎公像(山梨県甲府市・甲府駅北口):甲府開府500年を記念して建てられた像
- 高遠城址公園(長野県伊那市):信虎が最期を迎えた高遠城の跡
この人物をもっと知る本
- 【評伝】平山優『武田信虎 覆される「悪逆無道」説』(戎光祥出版・中世武士選書):暴君のイメージを史料から見直す評伝



















