天正15年(1587)、九州征伐を終えた豊臣秀吉は、肥後(いまの熊本県)一国を佐々成政に与えました。ところがそのわずか1か月後、肥後の国人(土地に根を張る武士たち)が一斉に兵を挙げます。肥後国人一揆です。成政ひとりでは鎮められず、秀吉は九州・四国の大名を総動員して、ようやく年末にこれを鎮めました。そして翌年、成政は責任を問われて切腹します。肥後国人一揆を、登場する武将と戦いの流れから、わかりやすく解説します。
肥後国人一揆は、肥後の新しい国主・佐々成政が国人たちの土地を調べる検地を始めたことに、隈部親永らが反発して起きた一揆です(天正15年7月〜12月)。国人たちは「秀吉さまから土地を認める朱印状をもらっている」として検地を拒み、一揆は肥後の北半分に広がりました。
成政が隈部を攻めているすきに本拠の隈本城まで囲まれ、成政は秀吉に助けを求めます。立花宗茂らの救援、小早川秀包を大将とする1万余の大軍の到着で、田中城・城村城が落ち、一揆は12月に鎮まりました。秀吉は一揆を招いた責任を成政に負わせ、翌天正16年閏5月、成政は尼崎で切腹しました。
| いつ | 天正15年(1587)7月〜12月 |
|---|---|
| どこ | 肥後国の北部。隈府城(いまの菊池市)、城村城(山鹿市)、隈本城(熊本市)、田中城(和水町)など |
| 対立 | 隈部親永・和仁親実・甲斐親英ら肥後の国人 × 佐々成政と、豊臣方の九州・四国の大名 |
| 兵力 | 一揆勢 3万5千余(動員したとされる数)、成政の軍 約6,000〜7,000、田中城を囲んだ豊臣方 1万余(いずれも通説) |
| 結果 | 豊臣方の勝利。12月5日に田中城、年末に城村城が落ち、一揆は鎮まる |
| この後 | 一揆に加わった国人の多くが討たれる。佐々成政は切腹。肥後は北半分を加藤清正、南半分を小西行長が治めることになる |

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肥後国人一揆の年表
| 年月日 | おもな出来事 |
|---|---|
| 天正15年(1587)3〜5月 | 秀吉の九州征伐。肥後の国人たちは次々に秀吉に降り、5月に島津義久が降伏する |
| 天正15年6月 | 九州の国分け。肥後一国(球磨郡をのぞく)が佐々成政に与えられる。肥後の国人たちは秀吉の朱印状で土地を認められ、成政の下につく |
| 天正15年7月 | 成政が検地を始める。隈部親永が朱印状をたてに検地を拒み、隈府城で兵を挙げる |
| 天正15年8月6日 | 成政が約6,000〜7,000の兵で隈府城を攻める。親永は城を捨て、子の親泰が守る城村城に移る |
| 天正15年8月 | 成政が城村城を囲んでいるすきに、甲斐親英・和仁親実ら一揆勢が成政の本拠・隈本城を囲む。一揆は肥後の北半分に広がる。成政は急いで隈本に戻るが、甥の佐々成能を失う |
| 天正15年9月 | 秀吉が小早川隆景ら九州・中国の大名に出兵を命じる。鍋島直茂・安国寺恵瓊の兵糧隊は南関で待ち伏せにあうが、立花宗茂が南関を突破して成政に兵糧を届ける |
| 天正15年10月28日 | 小早川秀包を大将とする1万余の軍が、和仁親実らの田中城を囲む |
| 天正15年12月5日 | 田中城が落城。38日の籠城の末、安国寺恵瓊の内応工作で城が落ち、和仁一族は滅びる |
| 天正15年12月下旬 | 城村城の隈部親永も、恵瓊のすすめで城を明け渡す。一揆が鎮まる |
| 天正16年(1588)2月 | 成政が大坂に謝罪に向かうが、秀吉は会わず、尼崎に留め置かれる |
| 天正16年5月27日 | 立花宗茂に預けられていた隈部一族が、柳川城の黒門前で討たれる |
| 天正16年閏5月14日 | 佐々成政が尼崎の法園寺で切腹。肥後は北半分を加藤清正、南半分を小西行長に与えられる |
| 天正16年7月8日 | 秀吉が刀狩令を出す。百姓や国人が武器を持って立ち上がることを防ぐ政策へとつながる |
なぜ一揆が起きたのか ― 「朱印状」と「検地」のすれ違い
肥後は、大きな大名が国全体をまとめたことのない国でした。北には菊池氏の流れをくむ隈部氏や和仁氏、阿蘇山のふもとには阿蘇氏とその重臣の甲斐氏、南には相良氏と、たくさんの国人がそれぞれの土地を治めていました。九州征伐で秀吉が攻めこむと、彼らの多くは戦わずに秀吉に降り、秀吉から朱印状をもらって、自分の土地を認められました。
そこへ新しい国主としてやってきたのが、富山の役で秀吉に降り、越中の大半を失ったのち秀吉の御伽衆となっていた佐々成政です。成政は国主として、肥後の土地をきちんと調べる検地に取りかかりました。どの村でどれだけ米がとれるのかを調べ、それにもとづいて年貢や軍役を決める。これは秀吉が全国で進めていた政策そのものでした。
しかし国人たちから見れば、話が違います。「自分たちの土地は、秀吉さまが朱印状で認めてくださったものだ。新しく来た成政に調べられる筋合いはない」。とくに隈部親永は、九州征伐のときに土地を大きく減らされていたこともあって、強く反発しました。秀吉は成政に「3年は検地をするな」と言いつけていたのに、成政が急いで検地を始めた、という話も伝わりますが、この言いつけが書かれた文書は後世の書物にしか見えず、本当にあったかは疑わしいとされています。
| 立場 | 言い分 |
|---|---|
| 肥後の国人(隈部親永ら) | 土地は秀吉の朱印状で認められている。新しい国主の検地には従わない |
| 国主・佐々成政 | 国主として国の土地を調べ、年貢と軍役を決めるのは当然。秀吉の天下の決まりにも合う |
| 豊臣秀吉 | 九州を早く落ち着かせたい。一揆が起きたことそのものを、国主の失敗とみなす |
兵力くらべ ― 3万5千の一揆勢と、豊臣方の総動員
一揆勢の数は、各地の国人が動員した兵をすべて合わせた数とされ、一か所に集まっていたわけではありません。秀吉は、翌年の春までに鎮まらなければ2万を送り、それでもだめなら弟の秀長に10万を率いさせて鎮めるつもりだったともいわれます。
肥後国人一揆に登場した主な武将(一揆方)
| 人物 | 立場 | この一揆での動き |
|---|---|---|
| 隈部親永 | 肥後北部の有力国人。菊池氏の旧臣の家 | 検地を拒んで最初に兵を挙げる。隈府城から城村城へ移ってこもり、年末に城を明け渡す。翌年、柳川で討たれる |
| 隈部親泰 | 親永の子 | 城村城を守り、父とともに成政の軍を防ぐ |
| 甲斐親英 | 阿蘇氏の重臣・甲斐宗運の子 | 親永と示し合わせて国人たちを動かし、成政の本拠・隈本城を囲む |
| 和仁親実 | 肥後北部・田中城の城主 | 弟たちとともに田中城にこもり、1万余の豊臣方を相手に38日間戦う。城は落ち、一族は滅びる |
| 和仁親宗 | 親実の弟 | 兄とともに田中城を守る |
| 辺春親行 | 親実の姉婿 | 田中城の籠城に加わる |
肥後国人一揆に登場した主な武将(豊臣方)
| 人物 | 立場 | この一揆での動き |
|---|---|---|
| 佐々成政 | 肥後の新しい国主 | 検地を進めて一揆を招く。隈府城を落とすが城村城を攻めあぐね、本拠の隈本城を囲まれて秀吉に救援を求める。翌年切腹 |
| 立花宗茂 | 筑後柳川の大名(21歳) | 弟の高橋直次とともに約1,200で出陣。南関の伏兵を見破って突破し、一日に何度も戦って城を落とし、兵糧の尽きかけた成政の軍に兵糧を届ける |
| 小早川秀包 | 小早川隆景の養子。筑後久留米の大名 | 鎮圧軍の大将として田中城を囲み、落とす |
| 安国寺恵瓊 | 毛利家の外交僧。秀吉からも重く用いられる | 田中城で内応工作を行い、城村城の隈部親永には城を明け渡すよう説く。のちに成政の助命を願ったともいわれる |
| 鍋島直茂 | 肥前・龍造寺家の重臣 | 兵糧を運ぶが南関で待ち伏せにあう。のち田中城攻めに加わる |
| 筑紫広門 | 筑後の大名 | 田中城攻めに加わる |
| 小早川隆景 | 筑前の大名。毛利家の重鎮 | 秀吉から出兵を命じられ、養子の秀包らを肥後へ送る |
| 豊臣秀吉 | 関白 | 九州・四国の大名を動員して一揆を鎮める。一揆の責任を成政に負わせ、切腹させる |
このほか、四国からも福島正則・蜂須賀家政・生駒親正・戸田勝隆らが鎮圧に送られました。一揆の後始末に当たった上使衆の中には、のちに肥後を治める加藤清正や小西行長もいました。
肥後国人一揆の流れ ― 隈府城の挙兵から城村城の開城まで

① 天正15年7月 ― 隈部親永の挙兵
肥後に入った成政は、さっそく国人たちに土地の広さや収穫を書き出して届けさせる検地(差出検地)を命じました。これに真っ先に反発したのが、菊池郡の隈府城にいた隈部親永です。親永は秀吉の朱印状を示して検地を拒み、7月、城にこもって兵を挙げました。
② 8月 ― 隈府城の落城と、城村城の籠城
成政の動きは早く、8月6日、約6,000〜7,000の兵で隈府城を攻めました。親永は城を捨てて、子の親泰が守る山鹿の城村城に移ります。城村城は守りの固い城で、成政は囲んだものの、なかなか落とすことができませんでした。
③ 8月 ― 本拠・隈本城が囲まれる
成政が城村城に釘付けになっているあいだに、一揆は肥後の北半分に一気に広がりました。阿蘇氏の重臣の家の甲斐親英は親永と示し合わせ、和仁親実らとともに国人たちを動かして、成政の本拠・隈本城を囲みます。動員された一揆勢は、あわせて3万5千余にのぼったといわれます。
本拠を失えば、成政は肥後に足場がなくなります。成政は城村城の囲みを解いて隈本へ急ぎましたが、その途中で一揆勢に襲われ、甥の佐々成能らを失いました。隈本城はかろうじて守られたものの、成政ひとりの力ではもう一揆を鎮められないことは明らかでした。成政は秀吉に救援を求めます。
④ 9月 ― 立花宗茂の南関突破

秀吉の命令で、まず鍋島直茂と安国寺恵瓊が成政の軍に兵糧を届けようとしました。しかし筑後から肥後に入る入口の南関で、一揆方の大津山氏の待ち伏せにあい、失敗します。成政の軍の兵糧は尽きかけていました。
そこで出陣したのが、筑後柳川の立花宗茂です。宗茂は弟の高橋直次とともに約1,200の兵を率い、伏兵がいることを見越して兵を三つに分けて進み、南関を突破して大津山氏の城を落としました。さらに一揆勢が成政方の城を囲んでいた陣を破り、ついに成政の軍に兵糧を届けます。この日、宗茂は13度戦って7つの城を落としたと伝わります。のちに「西国無双」とたたえられる宗茂の名を、九州に知らしめた戦いでした。
⑤ 10〜12月 ― 田中城、38日の籠城
秋になると、秀吉は九州と四国の大名を本格的に動員しました。小早川秀包を大将に、安国寺恵瓊・鍋島直茂・立花宗茂・筑紫広門らの1万余の軍が、10月28日、和仁親実の田中城を囲みます。田中城の兵は1,000に満たなかったといわれますが、和仁一族は二重の柵で囲まれながらも、38日間にわたって城を守りました。
最後に城を落としたのは、力攻めではなく、安国寺恵瓊による内応工作でした。12月5日、田中城は落城し、和仁一族は滅びました。
⑥ 12月下旬 ― 城村城の開城
田中城が落ちると、ほかの一揆方の城も次々に降りました。最後まで残った城村城の隈部親永も、恵瓊のすすめを受けて年末に城を明け渡し、一揆は鎮まります。親永の身柄は、柳川の立花宗茂に預けられました。
なぜ一揆は鎮まり、なぜ成政は切腹させられたのか
| 理由 | 内容 |
|---|---|
| 一揆はまとまりきれなかった | 国人たちはそれぞれの城にこもって戦い、大軍を一か所に集めることができなかった。豊臣方は田中城・城村城と一つずつ落としていった |
| 豊臣方の総動員 | 九州・四国の大名をまとめて動かせる秀吉の力の前では、一国の国人だけでは勝ち目がなかった |
| 恵瓊の調略 | 田中城の内応、城村城の開城と、最後は戦いよりも交渉で決着した |
| 成政が責任を負わされた | 秀吉にとって、九州を平定した直後の大きな一揆は、天下の決まりを揺るがす大事件だった。国をおさめられなかった国主として、成政が責めを負わされた |
成政の切腹には、いくつかの見方があります。秀吉がもともと反抗的だった成政を片づけるために、一揆の起きやすい肥後をあえて与えたという見方。成政が秀吉の命じた検地を急ぎすぎたためという見方。そして、成政がどう動いたかよりも、「九州で大きな一揆を起こさせた」こと自体が許されなかったという見方です。成政は大坂に謝罪に出向きましたが、秀吉は会おうとせず、天正16年(1588)閏5月14日、尼崎の法園寺で切腹しました。
肥後国人一揆のその後
| 人物・家 | その後 |
|---|---|
| 肥後の国人 | 一揆に加わった国人の多くが討たれるか処刑され、肥後の国人の家はほとんどが消える。一揆に加わらなかった国人の中にも、肥後の外に移された者がいた |
| 隈部親永 | 天正16年5月、柳川城の黒門前で、一族とともに立花家の家臣と立ち合う形で討たれる |
| 佐々成政 | 天正16年閏5月14日、尼崎の法園寺で切腹 |
| 加藤清正 | 肥後の北半分を与えられ、隈本城に入る。のちにこの地に熊本城を築く |
| 小西行長 | 肥後の南半分を与えられ、宇土城に入る |
| 立花宗茂 | 一揆での働きを秀吉にたたえられる。のちに朝鮮出兵でも名をあげ、「西国無双」と呼ばれる |
| 豊臣政権 | 天正16年7月8日に刀狩令を出す。百姓が武器を持つことを禁じ、一揆を起こさせない世の中づくりを進める |
まとめ
肥後国人一揆は、九州征伐のあと肥後の国主となった佐々成政が検地を始めたことに、秀吉の朱印状で土地を認められていた国人たちが反発して起きました。隈部親永の挙兵から一揆は肥後の北半分に広がり、成政は本拠の隈本城まで囲まれます。立花宗茂の南関突破、小早川秀包を大将とする1万余の軍による田中城攻め、安国寺恵瓊の調略で、一揆は年末に鎮まりました。しかし秀吉は一揆の責任を成政に負わせ、成政は尼崎で切腹します。肥後の国人たちの家はほとんどが消え、肥後は加藤清正と小西行長の国となりました。









































