くろだ ながまさ
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 黒田氏 |
| 大名家 | 黒田氏 |
| 家紋 | 藤巴 |
| 主武器 | 大槍・陣太刀 |
| 衣装・甲冑 | 一の谷兜・黒具足 |
| 武将タイプ | 勇猛・果断 |
黒田長政とは
黒田長政は、稀代の軍師と称された黒田官兵衛の長男であり、筑前福岡五十二万石の初代藩主となった武将である。関ヶ原の戦いでは東軍の主力として石田三成の陣に迫り、同時に小早川秀秋や吉川広家への調略を担った。徳川家康は戦後、長政の働きを第一の功と評している。偉大な父を持つ子は、しばしばその影に埋もれる。しかし長政は、父とは異なる資質で自らの家を築いた。幼少期の壮絶な体験から、福岡という都市の創設まで。五十六年の生涯をたどっていく。
人質として過ごした少年期
長政は永禄十一年(1568年)、播磨の小寺氏に仕える黒田職隆の孫、黒田孝高の長男として生まれた。幼名を松寿丸という。天正五年(1577年)、父の孝高は織田信長への臣従を主家に説き、その証として十歳の松寿丸を人質として差し出した。松寿丸は近江長浜の羽柴秀吉のもとに預けられ、秀吉の妻であるおねに養育された。この縁は生涯を通じて長政を支えることになる。天正六年(1578年)、荒木村重が信長に叛く。孝高は説得に赴いて有岡城に幽閉され、消息を絶った。
信長は孝高が寝返ったとみなし、人質である松寿丸の処刑を命じる。このとき竹中重治、すなわち竹中半兵衛が機転を利かせ、処刑したと偽って松寿丸を美濃にかくまった。一年後、孝高は幽閉先から救出され、その忠節が証明される。半兵衛はすでに病没していたが、その判断が黒田家の血を残したことになる。孝高は幽閉中に足を痛め、生涯不自由となった。長政の少年期は、父の受難とともにあった。
豊臣政権下での歩み
元服した長政は、秀吉の中国攻めから各地の戦役に従軍した。賤ヶ岳、四国攻め、九州平定と経験を重ねる。天正十五年(1587年)の九州平定後、黒田家は豊前中津に十二万石余を与えられた。孝高が隠居すると、長政が家督を継ぐ。豊前では国人一揆が起こり、長政はこれを鎮圧した。城井鎮房の謀殺など、苛烈な手段も用いている。
若い当主にとって、統治の現実は厳しいものであった。文禄・慶長の役では朝鮮へ渡海し、各地を転戦した。とりわけ稷山の戦いでの働きは知られている。この戦役で長政は、加藤清正らとともに現地で戦う武断派の一員となった。後方で差配する石田三成らとの溝は、ここで深まっていく。
家康への接近
慶長三年(1598年)に秀吉が没すると、豊臣政権の均衡は崩れた。長政は明確に徳川家康の側に立つ。慶長四年(1599年)、前田利家の死を機に、加藤清正・福島正則ら七将が石田三成の屋敷を襲撃した。長政もその一人である。家康は長政に養女を娶らせ、関係を強めた。長政は前妻である蜂須賀正勝の娘を離縁してまで、この縁組を受け入れている。この決断には冷徹な計算があった。豊臣家の将来を見切り、次の時代の勝者に賭けたのである。父の孝高は隠居の身でありながら、この動きを黙認した。むしろ息子の判断を後押ししていた節がある。
関ヶ原 — 調略という戦い
慶長五年(1600年)、関ヶ原の決戦において長政が果たした役割は、二重であった。一つは、戦場での働きである。長政は五千四百の兵を率いて笹尾山の石田三成隊に攻めかかり、竹中重門らとともに激戦を演じた。もう一つが、調略である。長政は西軍の諸将に密かに使者を送り、寝返りや不戦を取り付けていった。毛利家の吉川広家とは、南宮山の毛利勢を動かさないという密約を結んだ。これにより毛利本隊は最後まで戦場に加わらなかった。
小早川秀秋への働きかけにも長政は深く関与している。松尾山の一万五千が東軍に寝返ったことで、西軍は瓦解した。長政は父譲りの謀略の才を、この一日に集約して発揮した。槍働きだけを見れば他にも武将はいる。だが調略で勝敗を決めた者は長政をおいて他にない。戦後、家康は長政の手を取って謝意を述べたと伝えられる。恩賞は筑前一国五十二万三千石であった。
父との確執
関ヶ原の後、長政は父の孝高に、家康が自分の手を取って感謝したと誇らしげに報告した。孝高は問い返したという。そのとき、お前のもう一方の手は何をしていたのか、と。家康の隙を突いて刺せばよかったではないか、という意味である。孝高は九州で兵を挙げ、天下を狙っていた。この逸話は後世の創作の可能性が高い。ただし父子の志向の違いを見事に言い当てている。孝高は最後まで乱世の人であった。対して長政は、天下が定まる方に賭け、家を存続させることを選んだ。どちらが正しかったかは、結果が示している。黒田家は明治まで福岡藩主として続いた。
福岡という都市の誕生
慶長六年(1601年)、長政は筑前に入国した。当初は小早川秀秋の居城であった名島城に入る。しかし名島は手狭で、大領国の中心には向かない。長政は博多に隣接する福崎の地に、新たな城を築くことを決めた。七年をかけて完成したのが福岡城である。大天守は築かれなかったとも、後に取り壊されたともいわれるが、四十七の櫓を備えた広大な城郭であった。城下町の名を、長政は「福岡」と定めた。黒田家の先祖ゆかりの地とされる備前国邑久郡福岡に由来する。注目すべきは、商都である博多をそのまま存続させたことである。
那珂川を挟んで、西に武士の町「福岡」、東に商人の町「博多」を並置した。この二つの町の共存という構造が、今日の福岡市の性格を決めた。城下町と商都が対等に並ぶ都市は、全国的にも珍しい。博多の商人には自治的な特権が認められ、貿易も保護された。長政は父ゆずりの経済感覚を持っていたのである。検地を進め、藩の財政基盤を整え、家臣団の知行を確定させた。乱世の武将から近世の藩主へ、長政は明確に役割を切り替えている。
黒田二十四騎
黒田家には、孝高と長政に仕えた精鋭として黒田二十四騎と呼ばれる家臣団があった。さらにそのなかの八人を黒田八虎という。母里友信は、福島正則との呑み較べで名槍「日本号」を得た逸話で知られる。民謡「黒田節」に歌われる場面である。栗山利安は孝高の腹心で、有岡城幽閉の際に主君を救出した一人とされる。井上之房とともに、黒田家の家老として重きをなした。後藤基次、通称又兵衛は、槍働きで並ぶ者のない猛将であった。
関ヶ原でも大きな武功を挙げている。ところが長政と又兵衛は次第に不和となり、慶長十一年(1606年)、又兵衛は黒田家を出奔する。長政は奉公構という措置を取り、他家が又兵衛を召し抱えることを妨害し続けた。行き場を失った又兵衛は、後に大坂の陣で豊臣方に加わって討死する。この一件は長政の狭量さとして語られることが多い。父の代からの功臣を使いこなせなかったことは、確かに長政の限界を示している。
大水牛の兜
長政の兜として名高いのが、大きく湾曲した水牛の角を脇立に備えた大水牛脇立兜である。もう一つ、正面に大きな板状の前立を据えた一の谷形兜も伝わる。源義経の鵯越を思わせる断崖の形を模したものである。この一の谷形兜には逸話がある。長政が福島正則と互いの兜を交換したというもので、和解の証であったとも、武勇を認め合った印であったともいわれる。いずれの兜も、遠くから見て誰であるかが分かる意匠である。指揮官が自らの位置を示すことが、そのまま統率の手段であった。これらの兜は福岡市博物館に所蔵され、国宝の金印とともに同館を代表する収蔵品となっている。
晩年と死
大坂の陣において、長政は江戸の留守居を命じられた。豊臣恩顧の大名であるため、前線には出されなかったのである。かつての家臣である後藤又兵衛が豊臣方で戦い、討死したことを、長政はどう受け止めたのだろうか。記録は多くを語らない。元和九年(1623年)、長政は徳川家光の将軍宣下に伴う上洛の途上、京都の報恩寺で没した。
享年五十六。死に際して長政は、家臣を集めて遺言を残したと伝えられる。藩の運営について細かく指示し、家中の融和を説く内容であった。家督は嫡男の黒田忠之が継いだ。忠之の代には黒田騒動と呼ばれる御家騒動が起きるが、改易は免れ、黒田家は幕末まで福岡藩主として続いた。
人物像と評価
長政は父ほどの天才肌ではなかった。しかし人の心を読み、交渉によって局面を動かす能力は、確かに受け継いでいた。関ヶ原における調略の成功は、その最良の発揮といえる。武力で押し切るのではなく、戦う前に相手を減らす。黒田の血の見せどころであった。一方で、器量の狭さを示す逸話も残る。後藤又兵衛への奉公構は代表例で、感情を抑えきれない一面があった。
偉大な父を持つ重圧も無縁ではなかったろう。孝高が晩年まで九州で存在感を放っていたことは、長政にとって誇りであり枷でもあった。それでも長政は、乱世の家を近世の藩へと着地させた。父が広げた可能性を、彼は形あるものに変えたのである。福岡という都市が今日まで発展したことを思えば、長政の仕事は父の天才に劣らない価値を持っている。
長政ゆかりの地をたどる
福岡城跡は舞鶴公園として整備され、多聞櫓などの遺構が残る。石垣の規模から、五十二万石の城の大きさが実感できる。福岡市博物館では、大水牛脇立兜や日本号といった黒田家伝来の品を見ることができる。大分県中津市の中津城は、孝高が築き長政が受け継いだ城である。黒田家が九州へ足がかりを得た地でもある。岐阜県垂井町には、長政を救った竹中半兵衛ゆかりの地があり、松寿丸がかくまわれたと伝わる場所も残る。京都の報恩寺は長政終焉の地であり、境内には由緒を伝える案内が置かれている。
関ヶ原の調略はどう行われたか
関ヶ原における長政の調略は、決戦の当日に始まったものではない。数か月前から周到に準備されていた。標的は三つあった。松尾山の小早川秀秋、南宮山の毛利勢、そして西軍に加わった諸大名である。小早川秀秋は、秀吉の正室であるおねの甥にあたる。長政もおねに養育された縁があり、この人脈が交渉の糸口となった。毛利勢に対しては、吉川広家を通じて働きかけた。広家は毛利本家の存続を最優先に考えており、家康から本領安堵の言質を得ることで不戦を約束する。
結果として毛利輝元は総大将でありながら大坂城を動かず、南宮山の毛利秀元も戦えなかった。西軍は最大戦力を最初から欠いていたのである。さらに脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保といった諸将も内応していた。彼らは小早川の寝返りに続いて大谷吉継隊を襲う。関ヶ原がわずか半日で決したのは、こうした事前工作が積み重なっていたからである。長政の功が第一と評されたのは、この意味においてであった。
黒田家の家風
黒田家は、播磨の小寺氏に仕える一家臣から始まった。孝高の代に秀吉に見出され、長政の代で五十二万石の大名となる。二代で国持大名にまで昇った家は多くない。しかもその原動力は、領地の切り取りではなく情報と交渉であった。孝高は中国攻めで毛利との和睦を成立させ、九州平定でも各地の調略を担った。長政は関ヶ原でそれを再現した。
黒田家の強みは、戦わずに勝つという発想を親子二代で共有していたことにある。その反面、家臣団には猛将が揃っていた。後藤又兵衛、母里友信、井上之房。彼らの武力があってこそ、調略も説得力を持つ。謀略の当主と猛将の家臣団という組み合わせが、黒田家という組織の骨格であった。
豊前時代という試練
筑前五十二万石に至る前、長政は豊前中津で十二年を過ごした。この時期こそが、彼を大名として鍛えた期間である。豊前は宇都宮氏をはじめとする在地領主が長く根を張った土地であった。外から入った黒田家に、彼らは容易に従わない。天正十六年(1588年)、城井谷の宇都宮鎮房が反旗を翻す。長政は攻めかかったが撃退され、大きな損害を出した。その後、和睦を装って鎮房を中津城へ招き、謀殺する。
城井氏は滅ぼされた。二十歳そこそこの若い当主が選んだ、非情な手段であった。この一件は、長政の生涯でも最も評価の分かれる場面である。統治のためやむを得なかったという見方と、信義に反したという批判が併存する。ただ、豊前の平定なくして黒田家の九州での基盤はなかった。若き長政は、支配とは何かをここで学んでいる。
朝鮮出兵での経験
文禄元年(1592年)、長政は三番隊を率いて朝鮮へ渡った。二十五歳である。黄海道を平定し、その後も各地を転戦した。明軍との戦いでは苦戦を強いられる場面も多かった。慶長二年(1597年)の再出兵では、稷山において明軍と激突している。この戦いは日本側が押し返したとされるが、消耗は激しかった。二度の戦役を通じて長政が痛感したのは、補給の重要性であった。
どれだけ勇敢に戦っても、兵糧が届かなければ軍は崩れる。この経験が、後方を差配する石田三成らへの不信につながる。前線の将にとって、届かない兵糧は敵よりも恐ろしい。武断派と文治派の対立は、しばしば感情論として語られる。しかしその根には、七年に及ぶ異国での実体験があった。
父と子、二つの生き方
黒田孝高と長政は、同じ才を持ちながら、それを使う方向がまったく違った。孝高は生涯にわたって「もし」を追い続けた人である。本能寺の変の直後に秀吉へ天下取りを進言し、関ヶ原では九州で兵を挙げて中央の隙を狙った。長政は「いま」を確実に取る人であった。家康に賭け、調略で勝利を確定させ、恩賞を最大化する。孝高の生き方は魅力的だが、危うい。実際、秀吉には警戒され、家康にも警戒された。天下を狙う姿勢が透けて見えたからである。
長政の生き方は地味だが、確実である。彼は野心を家康に見せなかった。だからこそ五十二万石を任された。あの手は何をしていたのか、という孝高の問いは、二人の違いを一言で表している。父は刺すことを考え、子は握手することを選んだ。乱世が終わる局面では、後者が正解であった。黒田家が二百六十年続いた事実が、それを証明している。博多と福岡という二つの町が那珂川を挟んで並ぶ構図は、明治まで続いた。
市制施行の際にどちらの名を採るかで論争になり、僅差で福岡と決まったという経緯もある。長政が引いた線は、四百年後の市名をめぐる議論にまで影響した。都市を設計するとは、そういうことなのであろう。名軍師の子として生まれ、人質として命を狙われ、関ヶ原を調略で決し、九州最大級の都市を築いた。黒田長政の五十六年は、父の影に隠れて語られるにはあまりに濃い。
当図鑑内の関連武将
長政の父が黒田孝高、命を救った恩人が竹中重治である。黒田家を支えた家臣には母里友信、栗山利安、井上之房、そして袂を分かった後藤基次がいる。関ヶ原で調略した小早川秀秋と吉川広家、正面から戦った石田三成、武断派の盟友であった加藤清正と福島正則、そして恩賞を与えた徳川家康。あわせてご覧いただきたい。

